てんびん座
憧憬者としてあるということ
天使となるか悪魔と手を組むか
今週のてんびん座は、『リリイ・シュシュのすべて』の2人の少年のごとし。あるいは、「欲望」とは異質の感情としての「憧憬」を呼び起こしていこうとするような星回り。
「素敵な夢と陰惨な悪夢は同じ質量でできている」と言ったのは、確か高原英理だっただろうか。岩井俊二の映画『リリイ・シュシュのすべて』で、歌手リリイ・シュシュは自身の熱狂的なファンたちに「エーテルを初めて音楽にした」と語られ、欲望的汚れにまみれたこの世界にあっては、その「エーテル=無垢なる実在」こそが自分たちを生かしてくれるのだと信じられていた。
ストーリーの中心にいる2人の少年は、どちらも実はリリイ・シュシュのファンだったが、一方の少年は無垢なるものへの信仰を深めようとするあまり、「リアル」を欠いたフェイクに過ぎない実生活ではむしろ汚れることを恐れず、攻撃と恐怖によって同級生たちを支配していくようになる。それに対しもう一方の少年は、とうてい無垢な実在など具体的な生活上では触れえないことに絶望し、リリイ・シュシュの音楽を聞く以外は、ただひたすら無力な存在であり続けるしかないと感じていた。
はた目から見れば、彼らは専制的な暴君と典型的なぼっちのいじめられっ子であり、対極的な存在に映るが、その実は似た者同士だった。すなわち、「ただの生」とだけは決して和解しないし、それにとても耐えられないという一点において。
外部のモノや他者を獲得したいという命令と欲望、略奪と支配のゲームにはまり込む代わりに、それを超越したいと望む彼らは、他の実生活者からすれば病んでいるということになるのかも知れない。しかし、それは自分を超えた存在に憧れを持ってしまった者なら、人格のどこかに秘めているニュートリノのような微細な物質のようなものであり、日常世界を根底から覆すほどのものではないけれど、かすかに私たちに影響を与え続け、いつのまにか私たちを何かからそらしてしまったり、ある当面のものから遅らせたりするのではないだろうか。
6月6日にてんびん座から数えて「超越」を意味する9番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、かすかで微妙な道徳律としての無垢への「憧憬」に、少なからず揺り動かされていくはず。
隔靴掻痒
特に難しい言葉が使われている訳ではなくても、言葉の組み合わせとして不自然だったり、何度読み直してみてもよく意味が分からない作品に出合うことがあるが、島尾敏雄の『夢の中での日常』はその典型の一つと言える。
私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。
ここに書かれているようなことは、実際にはありえないし、また、いつかあり得るものでもないために、読んだ側も最初は不明晰な印象を受ける。ただし、次第にこうした事実としてありえない意味が、かゆさの感覚、またはかゆさに耐えかねて、それを逃れたいという欲求の暗喩になっていることが分かってくるはず。
今週のてんびん座もまた、なんらかの言葉にならない感覚の表出に裏打ちされた、新たな感情やそれに伴うリアリティを受け入れていくことがテーマとなっていくだろう。
てんびん座の今週のキーワード
「ただの生」とだけは決して和解しないこと