てんびん座
敵への友情
敵をつくりだすのは我が心
今週のてんびん座は、『敵ばかりわれには見えて壮年と呼ばるる辛きこの夏のひかり』(永田和宏)という歌のごとし。あるいは、孤独と両立する友情をしずかに模索していこうとするような星回り。
いつのまにか季節が変わり、一段と強さを増して地上を照りつける夏の日差しのもと、幻視のごとく、人生を通り過ぎていった幾人もの敵の姿が浮かび上がる。
一口に「敵」と言ってもさまざまだが、大別すれば、あからさまに道に立ち塞がってくるタイプか、友のように見えて実は敵だったというタイプのいずれかに落ち着くだろう。そして、より厄介で、こちらを破壊されかねないものとして忌み嫌われているのが後者のタイプの敵だ。
実際、信じた誰かに裏切られるのは嫌だし、裏切った相手の不正や未熟さを責めたくなる気持ちも分からないではない。しかし、一切の裏切りを許さない友情というのは本当に友情だったのだろうか。
例えば、シモーヌ・ヴェイユは「他の人たちがそのまま存在しているのを信じることが、愛である」(『重力と恩寵』)と書いている。すなわち、彼女にとって他者を愛するとは、他者を自分にとって都合のよい人間へとでっち上げないということであり、何かしら見返りを求める気持ちが強いのであれば、いくらこちらが多く差し出した場合でも、それは真の友情や愛ではないということになる。
このことは次のようにも言い換えられる。もしあなたが愛していたor友だと思っていた人が単に友や味方である(に違いない)と、勝手に思い込んでいたに過ぎなかったとすれば、それはその愛や友情自体が偽りだったのであり、あなたが誰も愛していなかったということになるはず。
5月15日にてんびん座から数えて「交友関係」を意味する11番目のしし座で上弦の月を迎える今週のあなたもまた、友達への自分勝手な願望を粉砕していけるかということが少なからずテーマになっていきそうです。
闇路に闇路を踏みそえて
ひとのいのちの道のなかばで、
正しい道をふみまよい、
はたと気付くと、漆黒の森の中だった。
これはダンテの『神曲-地獄篇』の冒頭。「道半ば」というのが具体的に何歳くらいのことを指しているのか定かではありませんが、人は折に触れて見知っているはずの日常世界から外れていくことがあるものです。
ちょうど『神曲』を執筆した当時のダンテも、政治抗争で敗れ故郷フィレンツェを追われた孤立無援状態で、まさにお先真っ暗の未知の世界に突如放り投げられたような心地であり、まさに思い浮かぶは「敵ばかり」だったはず。
ただ、もしかしたら彼は魂のどこかで、不意に迷い込んだこの“闇路”こそが自分が本当に果たすべき仕事を為していくための、すなわち正気に戻るための唯一の道であると気付いていたのではないでしょうか。
今週のてんびん座も、そんな人生の岐路にふと差し掛かるかも知れません。くれぐれも腐らずに、暗い胸の闇路をどこまでも辿ってやろうというつもりで行ってみるといいでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。