てんびん座
図と地の結び
すぐそこに在るあの世
今週のてんびん座は、平田篤胤の近傍霊界論のごとし。この世を死者との絶えざる駆け引きの場として引き受け直していこうとするような星回り。
3.11やコロナ禍を通じて、日本社会でも科学技術が必ずしも人をしあわせにはしてくれないのだということを、嫌というほど痛感させられたにも関わらず、近代的合理主義を適切に相対化してくれるような発想の見直しはあまり進んでいないように思えます。
ここで思い出される人物として、例えば神道の世界において、やはり近代的合理主義が疑問視されて以降、見直されるようになった人物に国学者の平田篤胤(あつたね)がいました。
もともと神道というのは現世の問題が中心であり、死後の霊魂の行方などはほとんど仏教任せで議論されることもなかったのですが、篤胤は死者の行く場所はこの世から隔絶された「黄泉」の世界などではないとして独自の説を提示したのです。
死者の行く冥府というのは、この生者の住む顕国を離れて別の場所にあるのではない。この顕国の内のどこにでもあるのだが、幽冥であって、現世とは隔たっており、見えない。(…)さて、その冥府からは人のしていることがよく見えるようだが、顕世(うつしょ)からは、その幽冥を見ることができない。(『霊の真柱』)
来世、すなわち死者の行く場所は、地下深くの「黄泉」やはるか遠方の「極楽浄土」などではなく、むしろ生者にきわめて身近なところにあるのだと考えた訳です。
この近傍霊界論ともいわれる立場では、死者の世界から生者の世界を見ることができるが、生者から死者を直接見ることはできないとされましたが、篤胤は両者のコミュニケーションやネゴシエーション自体を否定することはなく、むしろそうしたコミュニケーションによってたえず動的に揺れ動くものとして霊魂の行方をとらえていきました。
5月8日にてんびん座から数えて「絆」を意味する8番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、みずからの関わりを規定する世界観に、いかに近代的合理主義とは異なるアイデアや発想を取り入れていけるか、ということがテーマになっていきそうです。
ハイデガーの「世界の閃き」
普段生きられてはいるが、ほとんど明示化されることはない習慣的な動作や、技能と環境のカップリング(相互結合)、あるいは、文化を通して伝承され反復されてきた社会的コンテクスト(いわゆる「型」)などなど。
これらをハイデガーという哲学者は、「道具的全体性」と呼び、私たちがなんとなく生きていけるのは、そうした私たちのさまざまな活動を可能にしてもくれれば、制約しもするひとつひとつの道具的存在(例えばごみの分別だとか、来訪者にお茶を出すなど)がみずから目立たず“背景”にとどまることによって機能しているからなのだと述べました。
逆に、そうして機能していた道具が何らかの形で利用不可能になるとき、私たちは日常において背景となって働いていた「世界が在る」という語り得ぬ神秘を垣間見ることになり、それを「世界の閃き」と名づけたのでした。
そして、ハイデガーのいう「道具的存在」とは平田篤胤における死者の立ち位置ときわめて近しいのではないでしょうか。その意味で、今週のてんびん座もまた、「閃き」という形で、ふだん自分が実際に結んでいる死者との絆を感じとっていくことになるでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
あり得ないことは、見方次第で当り前に起きる