てんびん座
聖なる顕われ
「不在のわれ」の不意打ち
今週のてんびん座は、笑いと涙の不思議な仲のごとし。あるいは、笑い笑われるという二重性にきちんと晒されていこうとするような星回り。
林達夫は『笑い』という文章のなかで、原始儀礼や古代儀礼ではシンボルとしての笑うことと泣くこととがともに重要な役割を与えられていたことに注目して、一見すると対極的な泣くと笑うとは「心理的起伏のすがたをありのままに見ると、それはむしろ一つの流れのなかに継起する2つの波であった」もので、例えばそれは植物神の死と復活の祭りで泣きと笑いの結合がことに顕著に見出されるのだと述べています。
確かに、笑いのように人間存在の根っこの部分から湧いてくるものほど逆転現象を起こしやすいというのは、ある程度感覚的にもうなづけるように思います。笑っている時ほど、人間はみずからが隠してきたものをあらわに示す瞬間はありませんが、一方で、自分自身が何に触発されて笑ってしまっているのかということについて、果たしていつも自覚しているかと言えば、そうではないはずです。
例えば「われ思う、ゆえにわれ在り」と叫んだデカルトに対して、無意識を発見したフロイトは「われ思うところに、本当にわれは在るのか?」と指摘することで、「われ」という自覚とは切り離して考えていたものが、事後的に「われ」に入り込んでくる過程を明らかにしていきました。その意味で、腹の底からの笑いとは、近代合理主義的な主体に対する「不在のわれ」の不意打ちであり、それがある種のカタルシスを起こして、時に理由なく涙がこぼれてくるというのは、極めて自然な帰結なのではないでしょうか。
3月25日に自分自身の星座であるてんびん座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、避けがたく露呈してくるおのれの愚かさも、賢さも、等しく受け容れていきたいところです。
偶然と生きるために
「不在のわれ」の不意打ちとして笑いと涙という話は、おのずと「偶然」をどう許容していくかという形で焦点化していく問題でもありますが、例えば、哲学者の九鬼周造は、偶然性の基本構造に芸術的な美の起源を見出していました。
ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語との間に存する「双子の微笑(sourires jumeaux)」ということを云っているが、語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。(『偶然性の問題』)
これは例えば、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」という歌の「ふる(降る/経る)」「ながめ(長雨/眺め)」のような掛詞(かけことば)を想定してみると分かりやすいでしょう。
偶然の音の重なりによってまったく異なる意味の概念性が出会い、結びつけられていくことで出来上がる妙にも通じていきます。
偶然ほど尖端的で果て無い壊れやすいものはない。そこはまた偶然の美しさがある。偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の行きずりとして詩の形式の中に取り入れることは、生の鼓動を詩に象徴することを意味している(同上)
音韻と意味とのあいだの「行きずり」の出会い、その「あわい(間/淡い)」において、はかなさだけでなく唯一性を見ようとしたのが九鬼の偶然論の本質だったように思います。
今週のてんびん座もまた、偶然とともに生きることで、自分自身をかけがえなく感じていくことがテーマとなっていきそうです。
てんびん座の今週のキーワード
双子の微笑