てんびん座
月下の虫
名号の力
今週のてんびん座は、『夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿つ』(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、脳裏深くに呪文を刻んでいこうとするような星回り。
この「虫」は毬(いが)につつまれた栗の実の中に産み付けられたのであり、外からというより内から栗の実に穴を開けようとしているのでしょう。
句に詠まれているように、それはしーんと寝静まった夜も、みなが活動している昼も関係なく、誰も気づかないところでコツコツと続けられているのです。そう、その意味で、この句は当の自分でさえ気付かないうちに繰り返されている自問自答の隠喩とも言えます。
「穿(うが)つ」は、単に穴をあけるという意味だけでなく、物事を掘り下げる、事の本質にふれる、ひそかに機会をまつ、といった意味もありますが、ここでは特に決してその外へと突き抜けることがないものと感じられていた思い込みだったり、ほとんど固定化していたセルフイメージに風穴があけられていくような意味合いで使われているのではないでしょうか。
そして、「月下」とはそうした絶え間ない自問自答や迷いが晴れ、暗闇のなかでひとり追い求めてきた真実が照らし出された世界であり、さながら「はかり知れない光(アミターバ)」に由来をもつ阿弥陀仏の浄土のごときものを指しているのかも知れません。つまり、生きている限り、私たちは栗を穿ち続けることになる訳ですが、南無阿弥陀仏という名号の力を通じて、その臨終の際には月光ごとき阿弥陀仏の来迎が待っているのだ、と。
13日にてんびん座から数えて「実存の奥深く」を意味する2番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分自身を虫けらのごとき何の価値もない存在と思う代わりに、尊い仏の名でもって呼びかけていくべし。
「身を観ずれば水の泡」
これは一遍上人が残した八十六句からなる和讃(漢語のお経を日本語に翻訳した仏教歌謡)の第一句であり、第四句までは以下のように続いていきます。
消えぬる後は人もなし
命おもへば月の影
出で入る息にぞとゞまらぬ
仏教詩人の坂村真民氏の解釈に従って書き下すと、「この身をよく見てごらん、それは水の泡のようなものだ。泡はすぐ消える、人も同じだ。この命を思うてごらん、それは月の光のようなものだ。出る息入る息のほんのわずかな間も、じっととどまっていることはないのだ」となります。
一遍にとってこの身を以って生きるとは、すなわち一呼吸ごとに命をかけることであり、その意味で念仏とは入る(吸う)息でみ仏とつながり、出る(吐く)息でこの身を仏にしていくための手段であったのでしょう。
今週のてんびん座のもまた、わが身の無常さではなく、その奥にある目に見えないつながりの方へとチャンネルを合わせてみるといいでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
即心念仏