てんびん座
体内にうごめく力
イイクニツクロウ…
今週のてんびん座は、『瀑布までからだを運ぶからだかな』(五島高資)という句のごとし。あるいは、ある種の“身体性の称揚”をぶち込んでいくような星回り。
「瀑布(ばくふ)」ないし滝しぶきは、真夏のこの時期に人間が想像しうる涼感の極致とも言えるもの。あまりの蒸し暑さに何もする気が起きなくなればなるほど、私たちはおのずと涼しさを感じさせてくれるものを思い浮かべざるを得なくなっていく訳ですが、かき氷や図書館などが比較的近距離や日常の延長線上にあるのに対して、「瀑布」は遠距離にあって、日常を一歩も二歩も超えていった先の、さらに奥まったところに鎮座している。
つまり、脳で自動的に処理される「行動範囲内」のカテゴリーにはまず入ってこない場所なんです。ぽっかり予定の空いた休日の気怠い午後に、「この後どっか行く?」という振りに「瀑布」と答えるカップルはまずいないでしょう。これは普通に考えれば分かること。
ただし、そうした「普通」や脳の自動的な情報処理は、「からだ」には通じないことがあるのだということも、私たちは経験的に知っています。「からだを運ぶからだ」が、時に世間的な“ほどほどさ”や日常的な行動パターンの縛りを突き破り、その遥か彼方へと<わたし>を連れ去ってしまうことがある。
その意味で、掲句はそうしてかどわかされた<わたし>をめぐる、ひとつの事件簿であり、日ごろは堅く保持されているかに見える意識―身体、頭脳―肉体の主従関係が見事にひっくり返された歴史の一幕に他ならないのだと言えるのではないでしょうか。
26日にてんびん座から数えて「実感」を意味する2番目のさそり座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした記述をさらりと自身の人生脚本に書き加えていくべし。
37歳の時の松尾芭蕉
俳句の宗匠(マスター)となって賑やかな日本橋界隈に住んでいた芭蕉は、37歳の時に突如として、当時は辺鄙な場所であった深川の粗末な小屋に移り住みました。そして、それだけでなく、それまでの売れ線の俳句とは異なる独自の作風を確立し始めたのです。
その頃に詠まれた『枯枝に烏のとまりたるや秋の暮』という句に添えて、歴史小説家の中山義秀は『芭蕉庵桃青』の中で次のように書いています。
彼はその頃からして、体内になにやらうごめく力を感じていた。小我をはなれ眼前の現象を離脱して、永遠の時のうちに不断の生命をみいだそうとする、かつて自覚したことのない活力である。/その活力が「烏(カラス)のとまりたるや」という、字あまりの中十句に、余情となってうち籠められている。
こう書いた中山もまた、早咲きの同級生を横目に、中学校の教師生活や校長とのトラブル、妻の闘病と死、貧困といった生活上の困難を経て、やはり37、8歳頃にようやく自身の文学の道を確立したのでした。中山にとって文学の道とは、時代や状況に流されることのない、独立自尊の気風であり、芭蕉を描いた筆致にも、自然と自身のたどってきた道への思いが重ねられていたように思います。
同様に、今週のてんびん座もまた、自己卑下するのでも過大評価に陥るのでもなく、ありのままに自分自身を捉え直していくことがテーマとなっていくことでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
誰に媚びるでもなく、時代に流されるのでもなく、自身の歩むべき道を見出すこと