てんびん座
純粋な戯れを
無心の祈り
今週のてんびん座は、「汝の存在を欲する」という言葉のごとし。あるいは、できるだけ余計な意図も狙いもないところで、交わりを結んでいこうとするような星回り。
社会の絆の存在論的根拠を問うた思想家ハンナ・アーレントの『アウグスティヌスの愛の概念』では、「Amo: Volo ut sis.(アモー・ウォロ・ウト・シス) 」というラテン語の重要な一文が取り上げられています。
直訳すれば「わたしは愛する。わたしはあなたが存在することを欲する」。相手に何かしてほしいという訳ではなく、こちらから何か特別な働きかけをしている訳でもない。そんなこの言葉が、実際どこまでの重さをもって書かれた言葉なのかは、正直わかりません。けれど、アウグスティヌスがこの言葉を記し、それにアーレントが反応したとき、そこには何らかの思いの奔流が確かに存在したのだろうということだけは、事後的にそれを後追いしている私たちにも感じ取れるはず。
そしてそれは、この言葉がそれ自体では何も語っていないこと、何の含みもなく、したがって目的合理性に絡みとられることがないゆえに、ただ現にいま交わりが存在し、それがこれからも存在していくことへの純粋な祈りになりえている点において豊かなのだという、ある種の直感に裏づけられているのではないでしょうか。
1月15日に自分自身の星座であるてんびん座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そんな「こんにちは」とか「もしもし」といった、それ自体では何も語っていないがゆえに豊かであるような無心の祈りの先に、交わりを育んでいきたいところです。
友愛ということ
人間にとって猫との関わりも、先のフレーズが指し示しているところに近いかも知れません。例えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩は猫である。名前はまだない。」という書き出しは日本人ならほとんど知らない人がいないくらい有名ですが、猫の飄々とした風情が端的によく現れているように思います。
そしてこれは猫を飼ったことのある人なら同意してもらえると思うのですが、猫と戯れていると、しばしば猫の方こそが人間を相手に暇つぶしをしているのではないかという気がして来ます。それは確かに奇妙な気分ではあるのですが、同時に重たい何かから解放されたような、ホッとさせられるひと時でもあるのです。
そんな時に思い出すのが、モンテーニュの『エセー』に出てくる、「真の友愛においては、私は友を自分の方に引き寄せるよりも、むしろ自分を友に与える」という一節です。おそらく、そうした友愛がどうして成り立ち得るのかと聞かれても、モンテーニュは「それは彼が彼であったから」であり、「私が私だったから」という答えるしかないでしょう。
同様に、今週のてんびん座もまた、自分以外の何か誰かに自分を与え、遊ばれることを自分に許していくような感覚を楽しんでみるべし。
てんびん座の今週のキーワード
むしろ自分を友に与える