てんびん座
補色的な動きをすること
植物のしていること
今週のてんびん座は、「生と死のあわいに明滅する色」としての緑のごとし。あるいは、さりげなく隠れたところでいのちを繋いでいこうとするような星回り。
かつてゲーテは色彩論のなかで「緑は生命の死せる像である」と述べましたが、これと似たことを染織家の志村ふくみが「緑は生と死のあわいに明滅する色である」という言い方で言っていました(『色彩という通路をとおって』)。
例えば、春先に萌えいずる蓬の葉汁を布や糸に染めても数分で消えてしまうし、藍染の染料とする液体をためておく甕に入れた糸を引き上げた瞬間の、目もさめるようなエメラルドグリーンも、空気に触れた瞬間に消えてしまいます。
緑を染めるには、闇にもっとも近い青と、光にもっとも近い黄色を掛け合わせる必要があるのだそうですが、そのことは緑という色が、いのちの秘密と関係していることの何よりの証左なのだと言えます。
宮沢賢治が「春と修羅」の冒頭で言及したように、私たちが生きて在ることも「生と死のあわいの明滅」に他ならない訳ですが、だとすれば、植物だけでなく私たち人間の本質も緑という色と関係があるはずです。緑が赤の補色であり、赤が血や赤子など、直接的に生命の躍動や鼓動と結びついていることを踏まえれば、緑という色は「わたくし=青白い照明」が「風景やみんな」と相互依存的な関係の中で現れ、それによってはじめて赤色的な生命活動のあれやこれやが「たもたれ」ているのではないでしょうか。
その意味で、16日にてんびん座から数えて「隠れているもの」を意味する12番目のおとめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ともすると動物的な本能に隠れがちな、自分の中の植物的な本質に気付いていきたいところです。
「是風」に「非風」を交ぜていく
多くの人は歳をとることは可能性が限られていくことであり、できることや選択の自由も年々失われていくものと、一面的にネガティブなものと考えがちです。確かに身体の機能そのものが衰えることは事実ですが、そうした衰えを終わりと結びつけて考えるのはあまりに短絡的でしょう。
例えば、「能」という芸術を完成させたとされる世阿弥などは、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消え、といったように人生を段階的な「喪失」のプロセスとして捉えていきますが、同時に、人は喪失と引き換えに何か新しいものを獲得するための試練=「初心」を迎えていくのだと繰り返し述べています。
彼が後進へ書き伝えた『風姿花伝』には「年来の稽古の程は、嫌いのけつる非風の手を、是風に少し交じうる事あり」という文章がありますが、これは若年から老年にいたるまで積んできた稽古のなかで、自分は「嫌いのけつる非風の手」、すなわちこれまで苦手とし避けてきたようなこと、やるべきでないとされてきたことを、「是風」、すなわち得意にしてきたことや好んでやってきたことの中に取り入れて交ぜてきたのだと言っています。
世阿弥にとって人生とは、こうした自由の境地を獲得していくためのプロセスでもあった訳ですが、これもまた「生と死のあわいの明滅」と言えるのではないでしょうか。
今週のてんびん座もまた、まだ取り入れ切れていない「非風」を探してみるとことで、その明滅を促してみるといいでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
「あらゆる透明な幽霊の複合体」への接近