てんびん座
媒介と小説
自然なふるまいを
今週のてんびん座は、「ふるまい」という日本語のごとし。あるいは、「する/される」というモードの外へと立たされていくような星回り。
哲学者の坂部恵は、「ふるまい」という日本語をめぐる考察のなかで、「ふるまう」に相当する西洋語の動詞が、英語のbehave oneself、ドイツ語のsich verhaltenなど、いずれも再帰動詞のかたちをとることに注目していました。というのも、そうした事実は、「ふるまい」という日本語のもつ「受動的であると同時に能動的な<二重化的>な構造」を暗に示しているからです。
<自由自在なふるまい>において、ひとは、既製の行動の規範や形にしたがいながらも、けっしてそれらにしばられることなく、いわば自己と他者との間、普遍的規範と個別的状況との間を想像力によって自由に行き来しながら、個別的状況に即し、個別的状況を超えつつ、ふるまう。
坂部はここで、普遍と個体、他者と自己、可能性と現実など、「ふるまう」というごく日常的な所作の中に、さまざまな二元論的対立の「媒介」を見ています。そして、「媒介」という在り方は、電車の上りと下りのように、一方通行ではない双方向性として姿をあらわす訳ですが、それはいつも必ず二者の中間にあるということではなく、2が1であり1が2となるという決定的な変化の訪れに他ならず、それは大抵の場合、「悲しむ」とか「怒る」といった情動にまつわる動詞のように、内的な魂や身体において生き生きと、おのずから生起していくものでもあるはずです。
その意味で、8月12日にてんびん座から数えて「自己表現」を意味する5番目のみずがめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、何事かを頑張って成し遂げるのでもなく、ただ命令に従う訳でもない、「ふるまい」という語のもつ「媒介」としての働きにおのずから近づいていくことがテーマとなっていくでしょう。
大説と小説
もしあなたが何かがきっかけとなって物語を書き、本にして出版することになったとしたら、一体どんな肩書きを名乗るでしょうか。そこで思い出されるのは、どこかで高橋源一郎が「小説を書いて作家というのはつまらない。小説は「大説」に対する小説だから」と述べていたこと。
大説というのは仏教の経典であったり、大上段から天下国家を語ったりするものであって、それに対して小説というのは本当に小さなことをあえて取りあげていくことが特徴です。
それは「つまらない些細な話でございます」という卑下であると同時に、声なき人たちの声を聞き、名もなき人たちのところに視点を置いて、人間のもっとも弱い部分や、無視され流されがちな部分のディテールを書きこんでいくことで、結果的にそこに光を見出していくのだという自負であり、それこそが物語や小説の得意としていることなのだと。
きっと、先の「ふるまい」ということも、個体を通して普遍に至ったり、逆に普遍が複数の個体的状況へと分裂したりという意味で、多分にそうした小説的な営みなのでしょう。
その意味で今週のてんびんざまもまた、自己顕示ではなく、あくまで自己を深化させて他者に行き当たり、それで自分が変わってしまうようなところにこそ、エネルギーを注いでいくべし。
てんびん座の今週のキーワード
「ふるまう」ことに敏感になる