てんびん座
琴線に触れる音を待つ
伝達可能性を奪われた世界
今週のてんびん座は、空から降りつづける雪のごとし。あるいは、ただただ感性的な吐息を漏らしていくような星回り。
空から降る雪が何も語ることはないように、話せないことというのは自然の本質であり、その意味で自然とは嘆く存在と言えます。そしてその嘆きは決して十分に分節化されないまま、いつまでも続く無力な言語表現であり、それは感性的な吐息でしかないのです。
ベンヤミンはそんな自然を「伝達可能性(communicability)」を奪われた、悲しい世界とみなしました。日常的な意味での挨拶も通じず、いくら語りかけても何ら言葉らしい言葉の返ってこない、一切の伝達が遮断された孤立した空間。
なぜ雪は降り続けるのか、と問うても何も返答はないが、しかしそうしてすべてを白く塗り潰してしまうのは、自然が悲しんでいるからだ、と受け取る感覚は人間にとっても大事なことのように思います。
27日にてんびん座から数えて「自己との対話」を意味する12番目の星座であるおとめ座で下弦の月(気付きと解放)を迎えていく今週のあなたもまた、言葉を語りえない悲しみと一体化していく時間を意識的に作ってみるといいでしょう。
目に見えないけれど聴こえてくるもの
お葬式の席では、死んだ人の悪口を言ってはいけないなどと昔からよく言いますが、それは五感のうち最後まで残るのが聴覚だからであり、たとえ意識や生命活動が失われていようとも、こちらの声の波長が伝わってしまうことがあるからなのだそう。
考えてみれば、人間は日頃から聴覚を基底に生きているのかも知れません。たとえば、私たちは朝、窓の外から聞こえる鳥のさえずりや通行人の話し声、車の音などとともに目覚め、日中は街の喧噪の中で活動し、夜になれば無性に誰か人の声が聞きたくなってスマホに手を伸ばし、SNSに興じる。そして、そこでの<音>というのは、聞こうとして初めて深く感じとれるものであり、いくら音量を大きくしても、こちらの心が相手の波長に合っていなければ、大切なことは何も聞こえてきやしないのではないでしょうか。
旧約聖書において、いにしえのユダヤの詩人は「人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。」(箴言18章4)と歌いましたが、そうした体験は真に心を傾けたいと思える対象をじっと心待ちにしたことのある者でなければ不可能なのだと言えます。そう、さながら涸れてひからびた川のように。
今週のてんびん座もまた、欠けていく月とともに今の自分には何が不足しているのか、心を傾けるべきはどこなのか、次第に研ぎ澄まされていくことでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
太郎の屋根に雪降りつむ