しし座
平常心を極める
真の快の生活をめざして
今週のしし座は、「魂がいやしいかどうか」という古典的な問いかけのごとし。あるいは、自分を支えてくれているアタラクシア的な基準を再確認していくような星回り。
エピキュリアン、つまり古代ギリシャのエピクロスの徒と言えば、人間の幸福とはつまるところ快の充足にあるとする‟快楽主義者”を指して言われる言葉であり、資本主義下ではそれはいかに自由に使えるお金をたくさん持ち、それを飲食や美容、遊興などに投じることができるかということとイコールで結びつけられがちです。
ただ、実際にエピクロスが説いていたのは、そうした終わりなき快の充足の追求や自分勝手に欲望むさぼる快楽主義とは対極的な、「心の平静な状態(アタラクシア)」を善とする立場でした(出隆・岩崎允胤訳『エピクロス 教説と手紙』)。
確かに彼はあらゆる善の基礎を胃袋や性愛や聴覚の「快」にあるとはしていますが、その快とは、「道楽者の快でもなければ、性的な享受のうちに存する快でもなく、なによりも、肉体の苦しみなく魂が平静であることにほかならない」とし、真の快の生活を生み出すものとは、魂に動揺を与えるさまざまな恐怖心を追い払う働きをする「平常心」なのだと考えたのです。
またエピクロスはこの平常心ということについて、次のような言い方でも言及しています。「いやしい魂は、思いがけない幸運によって膨れあがり、不運によって打ちのめされる」のだ、と。すなわち、ここでは、魂が「いやしい」かどうかが、平常心が働くか、自分自身が重く静かな存在となり得ているかの基準になっている訳ですが、これは現代人的な感覚からはとても新鮮に映るのではないでしょうか。
そして、10月17日にしし座から「思想的立場」を意味する9番目のおひつじ座で十三夜の満月(実感)を迎えていく今週は、あなたが経験したここ数カ月の災難や珍事を通じて、どれだけ自分の中で‟確信”が深まったのかを改めて確認していくにはもってこいのタイミングとなっていくはず。
ドラえもんの存在理由
ドラえもんとは何か。それは、主人公である野比のび太の遺した借金が多すぎて、百年たっても返しきれない孫のセワシ君が、元凶であるのび太の運命を若年に遡って変えるべく、未来から現代に送り込んできたロボットである。
したがって、ドラえもんがなすべき任務は、のび太の悪い運命を変えることであり、そのための援助をすることである。しかし、ここで1つ問題が出てくる。ドラえもんが無事にその任務を遂げた場合、セワシがのび太に受けた被害もなくなってしまい、セワシがのび太のもとへドラえもんを送り込んだ理由そのものが消えてしまう。そうなってもなお、ドラえもんは現在に存在し続けられるのか。また、やはり現に貧乏なセワシはその記憶ごと存在が抹消されてしまうのだろうか。
そう考えてみると、いずれにせよドラえもんというのは実に不思議な存在であるということがわかってきます。すなわち、ドラえもんというのは、今自分が存在している原因とその存在理由そのものを消し去ることがその存在理由である存在なのです。
にも関わらず、当のドラえもんはと言うと、いつ自分の存在そのものが消えてしまうかもしれないという実存的不安を少しも気取られることなく、いつも能天気に暮らしているように見えますが、もしかしたらそんなドラえもんこそ「アタラクシア」の最高のモデルと言えるのではないでしょうか(単に課せられた任務を忘れているだけかも知れないが)。
今週のしし座もまた、現にその実現へと近づいたり遠のいたりしているであろうみずからの運命について、改めて思いを巡らせてみるといいでしょう。
しし座の今週のキーワード
「ぼく、(押し入れに真顔でいる)ドラえもん!」