しし座
後ろ向きに跳んでいけ
「なりたい自分」になりたいか?
今週のしし座は、いにしえの山上の行者のごとし。あるいは、人生のテンプレから外れていくだけの強い衝動に突き動かされていくような星回り。
古代文学を専門とする西郷信綱は、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)に典型される、たまたまではなくみずからの意思で共同体を捨て山=異界に「亡命」していった修行者たちに由来する、子どもとして死に大人として再生していく通過儀礼の役割について、次のように述べています。
試練を終えた若者たちは村にもどり、ふたたび共同体の生活のなかに統合されてゆく。共同体をもっぱら静止的なものと考えるのは、正しくない。共同体も単に“ある”のではなく、やはり絶えず生成し、“なる”のであって、恒常性と変化との相互関係が過程としてそこにも生きていた。(『神話と国家ー古代論集ー』)
また、役小角は山中の洞窟に居たとされますが、西郷はそれも比喩的には母の胎であり、隔離の生活を典型化したものであると解釈した上で、共同体が内部で硬直していくのを防ぐために不可欠な新陳代謝を促す宗教的な原理の象徴として役小角を捉えたのです。
山中に隔離しきびしい試練を課する成年式の伝統形式は、大陸伝来の道教や密教の芳烈な影響を浴びるなかで、いわば永遠化され、山上の行者という新たな宗教者を生みだすに至った、といっていいのではなかろうか。成年式における隔絶の生活は、共同体の裂目である。その裂目に大陸伝来の教義が突入し、否定的な一つの飛躍は成就される。共同体との臍の緒が切れ、それからはみ出し、それ対立しさえするカリスマ的人格がこうして、村々を見おろす山中の孤独のなかで生誕する。それが役行者にほかならないと思う。
同様に、5月8日にしし座から数えて「社会的人格」を意味する10番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「否定的な一つの飛躍の成就」ということを、なんらかの形で遂げていきやすいでしょう。
“惰性”を斬り捨てる
人間誰だって楽をしたいし、ともすれば“多分”をつけて、今日や明日について考えていきたいもの。ただ、それがいつの間にか「これまでも、昨日もこうだった。だから今日も、そしてこれからもこうであるに違いない」となるまで、そうは時間はかかりません。そうして惰性のままに、“惰性”であるという考えそのものを頭から振り払ってしまうのです。
そうして、火事が起きても「ちょ待てよ」と立ち止まったりして、本当に死んでしまったりする。国家規模の災難を経験していた兼好法師は、やはりそうした人間心理を踏まえた上で、『徒然草』の第五十九段に「大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり」と書きました。
つまり、本当に事を起こさんという志があるなら、心に引っかかることや心配事があっても、それらを捨ててやってしまうべきで、そうでないと何も出来ずに一生が終わってしまうと言っているのです。
今週のしし座もまた、今「これだ」と感じたことがあるなら、やらない理由を思い切って捨てていくべし。
しし座の今週のキーワード
火宅の人なりけり