しし座
逃げるは勝ちだが道は遠い
父母未生以前
今週のしし座は、『来る人に我は行く人慈善鍋』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、自我のない世界への入口を探していこうとするような星回り。
昭和のはじめ頃に詠まれた句。「慈善鍋」とは、年末にキリスト教のプロテスタント派の一派が興した救世軍がクリスマスを中心とした年末に街頭で寄付を募る運動のことで、その前を人々が行き交っているわけです。
向こうから来る人びとの目に、こちらから行く人びとの姿が映っている。その中に、「我」もいるのだと。この句は互いに無関心な都会の雑踏の無意味さや虚しさを冷厳に描いたものとも取れますが、どちらかというとここでは群衆のなかに溶け込んでいくことで、頑なな「我」がほどかれていく心地よさを、さりげなく句にしているものと考えたい。
この地上で、ひとかどの人物たらんと、強く正しく善良に生きていくのはとても大変なことで、そうあろうと努力すればするほど、そこには大変な苦しさが伴ってくるもの。かつてエミール・シオランが書いていたように、「人間は自分に打ち克ち、自分の気持ちを抑えつけなければ、悪に汚染されていないどんな些細な行為すら成し遂げることはでき」ないのであって、作者にとって何ら悪意も意図もない他人の目のうちに自分を発見した瞬間、思いがけずそこに「この世から消え失せることの熱望」の実現を感じたのではないでしょうか(『悪しき造物主』)。
12月27日にしし座から数えて「生まれる以前」を意味する12番目のかに座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、そうしたある種の子宮回帰願望の強まりを感じていくことになりそうです。
悪しき群集心理
ここで改めて先の「この世から消え失せることの熱望」とは真逆の、「都会の雑踏」に象徴される無関心について考えてみたいと思います。これは例えば、自分の多少なりとも関わりのある少女が首を吊って死ぬであろうことを予感しながら、みずから動こうともしないといった情景を想像してみるといいでしょう。つまり、少女の内面に同化しようとする代わりに、間接的にであれ彼女をそそのかし、人の破滅を見ることのえも言われぬ「見る快楽」に溺れる、極限の堕落とイコールなものとしての無関心という訳です。
ここで言う「そそのかす」とは、「神のまなざし」に立っているつもりで、その実「悪魔の視点」に立つことであり、決してみずから手を汚さない点にその本質があります。
そしてこれは言うまでもなく、政治であれ他人の不幸であれ国の行く末であれ、炎上騒ぎや祭りの一環として単に憂さ晴らしや消費の対象としてしか見れなくなってしまった多くの現代人に通底する心理でもあるはず。これは自我のない世界というより、悪意に染められた世界といった方がいいでしょう。
その意味で今週のしし座は、スマホやPC、テレビの画面越しにしか何かを感じることができなってしまう前に、どこでなら悪しき群集心理に染まらずにいられるかを真剣に考えていきたいところです。
しし座の今週のキーワード
逃げ込み寺を確保する