しし座
運命的ふるまい
オイディプスの意志としての激情
今週のしし座は、死なずに盲目に生きたオイディプスのごとし。あるいは、苦悩を通してみずからの「在る」を作りあげていこうとするような星回り。
ギリシア悲劇の代表的作品として知られる『オイディプス王』の主人公・オイディプス。初めは国家の救済者として活躍し、新たな君主として名声の輝きとともにあったオイディプスは、やがて(そうとは知らずに)父を殺害し母を辱めた者であることを知るに至って、みずから両眼を潰し、王位を退くこととなります。
しかし、これは決して単に自分ではどうにもならない運命に翻弄され、破滅していった物語という訳ではありません。例えば、ハイデッガーは『形而上学入門』の中で、私たちはむしろオイディプスの中に「その根本の激情が最も広くかつ荒々しいところまで突き進んだギリシア的現存在の形態」を把握しなければならないのであって、この「激情」こそ、「一切の大いなる問うことと知ることの根本制約」であり「ギリシア人たちの知と学問」の原動力なのだと言うのです。
「自由と必然」を主題とするギリシア悲劇にあって、みずからの存在を超えるような存在(≒運命)は、当の人間がそのことで“真に苦悩する”という仕方で受け止めることで初めて開かれうるものであって、この「苦悩」こそが「激情」の根源であるとも言っています。
さらに、そうして苦悩を通して露わになる運命に対し、私たち人間は単に受動的にあるだけでなく、能動的かつ創造的に関わること(両眼を潰す=自分自身を世間一般の常識や理性的判断の外に立たせる)が可能であり、それは「われわれ自身が運命のなかに自らを送り遣わす」行為に他ならないのだ、と。
16日に自分自身の星座であるしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分がそのうちへ投げ入れられているものの中に、改めてみずからを投げ入れていくべし。
「ふるまい」という日本語
例えば坂部恵は「ふるまい」という日本語をめぐる考察のなかで、「ふるまう」に相当する西洋語の動詞が、英語のbehave oneself、ドイツ語のsich verhaltenなど、いずれも再帰動詞のかたちをとることに注目していました。というのも、そうした事実は、「ふるまい」という日本語のもつ「受動的であると同時に能動的な<二重化的>な構造」を暗に示しているからです。
<自由自在なふるまい>において、ひとは、既製の行動の規範や形にしたがいながらも、けっしてそれらにしばられることなく、いわば自己と他者との間、普遍的規範と個別的状況との間を想像力によって自由に行き来しながら、個別的状況に即し、個別的状況を超えつつ、ふるまう。(『〈ふるまい〉の詩学』)
坂部はここで、普遍と個体、他者と自己、可能性と現実など、「ふるまう」というごく日常的な所作の中に、さまざまな二元論的対立の「媒介」を見ていくのですが、これなどまさに先のオイディプスの在り様そのものではないでしょうか。
この「媒介」という在り方は、電車の上りと下りのように、一方通行ではない双方向性として姿をあらわす訳ですが、それはいつも必ず二者の中間にあるということではなく、二が一であり一が二となるという決定的な変化の訪れに他ならず、それは大抵の場合、「悲しむ」とか「怒る」といった情動にまつわる動詞のように、内的な魂や身体において生き生きと、おのずから生起していくものでもあるはずです。
今週のしし座もまた、何事かを頑張って成し遂げるのでもなく、ただ命令に従う訳でもない、「ふるまい」という語のもつ「媒介」としての働きにおのずから近づいていくことがテーマとなっていくでしょう。
しし座の今週のキーワード
運命的、あまりに運命的