しし座
背中語り
母親を探す旅
今週のしし座は、『分け入つても分け入つても青い山』(種田山頭火)という句のごとし。あるいは、どこかにあったストーリーにはまり込んでいこうとするような星回り。
作者43歳の頃の作品で、この句を詠んだ直後に行乞(托鉢)の旅に出ています。その直接的なきっかけとなったのは、尾崎放哉の死でしょう。作者は面識こそなかったものの、彼の放浪流転の生き様に深い敬意を抱いていましたから、掲句はいわば放哉に対するレクイエムの意味合いもあったはず。
「分け入っても分け入っても」というリフレインは、本来は歩き疲れた末に行き先を見失った徒労感が無意識に口をついて出たもののように思いますが、「青い山」というイメージ喚起力のつよい言葉と結びつくことで、むしろこの季節の自然に宿る無限包容性とでも言えるような底知れなさを暗示しているように感じます。
そこでふと気になってくるのが、作者が9歳のときに母親が自殺している点です。作者がすべてを投げ捨てるように放浪の旅に出たのも、この世からいなくなった母親を探す旅であったのかも知れません。
そういう意味で、作者にとっての自然とはきわめてロマンチックで甘ったれた存在であったと言わざるを得ない訳ですが、それもあいまって掲句は事実をストーリー化することによってしか現実と向きあえない人間の悲哀を鮮烈に浮かびあがらせているのだと言えます。
5月20日にしし座から数えて「現実との向きあい方」を意味する10番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自身がどのようにこの世界と向きあわんとしているか、思いがけず浮き彫りになっていくことでしょう。
語り尽くさないことで多くを語ること
江戸時代最大の劇作家・近松門左衛門は、『難波土産』(1738)の中で「芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜のあいだにあるものなり」「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、このあいだに慰みがあるものなり」と述べました。
つまり、あまりに直接的な事実だったり、余りにでたらめなウソばかりでは、人の胸には真実らしさとして迫ってこない、リアリティもない。虚と実との微妙な“あわい”にあって、起伏をつくり、その境界をあいまいにすることによって初めて、一抹の真実を含んだ芸術となり得るのだと説いた訳です(これは悪口にも言えることでしょう)。
それを体現している装置が、例えば人形浄瑠璃における「黒子(くろこ)」であり、慣れない最初こそ人形を操る黒子の存在は目障りで気になるが、やがて黒子によって人形に命が吹き込まれ、その演技がこちらの想像力を増幅させることに気が付いていくはず。
この表現法について、元田與一はこう述べています。「近松は『あはれなり』と書くだけで、あわれさが醸しだされると考えることの愚かさを力説」し、「描き尽くさないこと、演じ尽くさないことによって、逆に多くを語りだそう」(『日本的エロティシズムの眺望ー視覚と触感の誘惑ー』)としているのだと。
今週のしし座もまた、実と虚のあいだに立ちつつ、どうしたら語り尽くさないことで多くを語ることができるのか、自分なりに試行錯誤してみるべし。
しし座の今週のキーワード
背中で何かを伝えていくことの難しさから逃げないこと