しし座
因果づくを貫く
にがい厄を負う
今週のしし座は、「さわらないではいられない」内なる魔物への呼応。あるいは、みずからの生を「当たりさわり」のある話に寄せていこうとするような星回り。
作家の車谷長吉は『因果づく』というエッセイの中で、「小説を書くという振る舞いは、魔物に『ふれる』というより、魔物に『さわる』という行為に近く、時にみずからが分泌する人間毒に感電して、何とも得体の知れないメランコリア(憂鬱)に囚われてしまうことがある」のだと告白しています。
そして、かつて行った目黒の権之助坂のおさわりバーの話などを持ち出しつつ、「『さわらないではいられない』因果づくの物の怪に追われて『さわる』のであって、魔物に『さわった』途端、こちらの生血が吸い取られる。が、当り『さわり』のない話だけを書いていたのでは、文学にならない」のだとうそぶいた上で、こう続けるのです。
いずれにしても、この「さわりたい」「さわらないではいられない」というみずからの中の魔物は、人にあっては不可避の出来事である。本当は「さわりたくない」「さわらない方がいい」、けれども「さわりたい」「さわらざるを得ない」「さわらないではいられない」「さわることなしには生きて行けない」、そういうことがある。そういう因果づくの物の怪が、人という生物の中には息をしている。まことに厄介な、にがい厄である。文学がどうのを抜きにしても、人の生はそういう厄を負うているのではないだろうか。「厄」とは木の節の目のことであり、この目は木の中にシコリとなっていて、鋸の歯など飛ばしてしまうのである。
28日に自分自身の星座であるしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そんな風に自身の中に棲みついては息をしている「因果づくの物の怪」にさわらずにはいられない自分のサガについて、改めて思い知っていくことでしょう。
倫理的に無法でなくてはならない
石川淳の『六道遊行』という小説があります。千年の時空を超えて現代と奈良時代とを往復するというSF仕立ての物語で、そこには玉丸というスーパー・ベイビーが出てくるのですが、彼の後見人である成り上がりの事業家がおもしろいことを言うのです。
ばか教師がなにを知ってをるか。こはれたものをあとから継ぐといふ思想がわしには気に入らん。茶碗は割れば消える。ものは消えるといふことを知ればそれでよいではないか。あとの始末は掃除番にまかせておけ。窓ガラスに黄金のボールを投げつけてあそぶのが貴族のあそびだ。窓もボールもどこかに吹つ飛んで、空虚の中に当人がゐる。空虚こそ貴族の立つところぢやよ。
この小説はいわば男性原理と女性原理の確執を、一つの戯画化された政治史として描いているのですが、作者の「陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない」というある意味で子どもっぽい恋愛テーゼは、最後に玉丸において「おれはひとりで行く。おもふままに振舞ふ。たれの世話にもならない。じやまなやつはどけ」というセリフとして結晶化していくのです。
同様に、今週のしし座もまた、下手に世慣れた振る舞いでお茶を濁すくらいなら、いっそ本来のしし座らしい子どもっぽいやり方に大胆に切り替えていきたいところです。
しし座の今週のキーワード
じやまなやつはどけ