しし座
わが身に悪を引き受ける
経験から「悪」を考える
今週のしし座は、知らず知らず招き寄せてしまう悪へのまなざし。あるいは、「こうむる悪」ということを改めて身近に感じていくような星回り。
哲学者の藤田正勝は、近代日本では個人の内面に分け入っていって、自分の意思に関わらずさまざまな悪を犯さざるを得ない“宿業”を見据えていこうとする「おかす悪」の問題が盛んに取り上げられてきたのに対して、社会の中に存在する悪や、弱者たちが経験する悪などの「こうむる悪」という問題があまり積極的に考えられてこなかったのだと指摘しています。
一方で、例えばユダヤ人の哲学者レヴィナスは、攻撃に対して力なく横たわる人々のまなざしの中にある抵抗が、暴力をもつ側に殺害への誘惑を引き起こすのだ、というところに考察の基礎をおいて、現代における「こうむる悪」の問題と対峙してきました。
そうした力なく横たわる者の持つまなざしは、レヴィナスによれば二重性をはらんだ弱者のまなざしであり、攻撃するものは殺したいと思いつつも、そのまなざしに宿る倫理的なもの、すなわち「高さの次元」ゆえにそれを殺すことができない。だからこそ、そうした弱者のまなざしに立脚することではじめて、私たちは社会において倫理的な関係を構築していく可能性を切り開いていくことができるのではないか、とレヴィナスは考えた訳です。
27日にしし座から数えて「生存権」を意味する2番目のおとめ座で下弦の月(気付きと解放)を迎えていく今週のあなたもまた、他ならぬ自分自身こそ、そうした悪の対象になりえるのだという認識から再出発していくといいでしょう。
敗れたハスの葉のように
石川淳の「敗荷落日」という作品が書かれた1945年の3月は、永井荷風が自身で偏奇館と名付けた根城を空襲で喪った直後であり、そのことからもこの10ページほどの小篇は大きな不運に遭遇した荷風への一種の心のこもった火事見舞いと読むこともできるでしょう。
ひとつ印象的なくだりを引用してみます。
わたしはまのあたりに、原稿の包ひとつもつただけで、高みに立って、烈風に吹きまくられながら、火の子を浴びながら、明方までしづかに館の焼け落ちるのを見つづけてゐたところの、一代の詩人の、年老いて崩れないそのすがたを追ひもとめ、つかまへようとしてゐた。
蔵書が灰になるのを目の当たりにして立ち尽くす丘の上の老詩人(作者は荷風のことをこう言い表した)の姿は、どこかギリシャ悲劇の主人公を彷彿とさせます。
思えば、題にある「敗荷」とは風などに吹き破られたハスの葉のことだそうで、荷風という名前もそこから採られており、石川はそのことを深いところで知っていた。そう読むこともできます。
今週のしし座のあなたもまた、自分を烈風に吹かれて敗れたハスの葉のようにしていった悪や不運の本質について、改めて深く痛感していくことができるかも知れません。
しし座の今週のキーワード
陳腐になるより宇宙的に孤独であれ