しし座
特別な交換の実行
闇夜と月夜
今週のしし座は、「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」(宝井其角)という句のごとし。あるいは、騙し絵のごとく視点の切り替えとともに異なる景色がみえてくるような星回り。
江戸時代の遊郭であった吉原を題材とした、いかにも遊蕩児だった作者らしい一句。自然に読もうとすれば、真夜中の江戸市中は月もなく真っ暗な闇夜であるが、ここ吉原ばかりは煌々と灯りが灯って、まつで月夜のようであるという賑やかな意味に取れますが、どうも掲句はそれだけでは終わらないのです。
つまり「闇の夜は/吉原ばかり月夜かな」で切れば先の通りなのですが、これを「闇の夜は吉原ばかり/月夜かな」で切ると、その意味するところががらりと変わってくる。月が煌々とその光がみなに等しく注いで、やすらぎをもたらすなかで、吉原ばかりがその恵みを受け取ることができずに闇に沈んでいる。
これは、江戸時代の吉原の遊女の平均寿命が二十歳程度だったことや、当時の記録などを見ると、非常に粗末な食事しか与えられていなかったことなどを考えると想像がつくのではないでしょうか。吉原にさかんに出入りしていた作者は、ただ遊んでいただけでなく、そういう事情にも自然と通じていたはずです。
9月23日にしし座から数えて「トランジション」を意味する3番目のてんびん座へ太陽が移る秋分を迎えていく今週のあなたもまた、まずは一面的にではなく多角的に物事を見通していくことが課題となっていくでしょう。
「虹見ゆるところに市が立つ」
歴史学者の勝俣鎮夫は、虹が原初的な‟市”ないし交換の観念と密接な関係をもっていたことを指摘して、以下のように述べています。
虹は天界(他界)と俗界とを結ぶ橋と考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って神や精霊が降りてくると信じられ、地上の虹の立つところは、天界と俗界の境にある出入口で、神々の示現する場であった。そのため虹の立つところでは、神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが、市を立て、交換をおこなうことであったのである(『税・交易・貨幣』)
虹の正体は雨粒に反射した太陽の光であり、雨が降った後に晴れなければ虹は現われませんから、上記の「祭り」とは恵みの雨を降らせるための雨乞いの儀礼であり、それが成功した際に初めて、閉ざされていた‟市”の門が開かれ、交易が再開されていった訳です。
そんな‟市”は、物と物とが交換されていく商いの場としてだけでなく、男/女のコミュニケーションのために開かれた占いの場でもありました。同様に、今週のしし座は、古代的な意味で‟虹が立つ”ようなタイミングにあるのだとも言えるかも知れません。
しし座の今週のキーワード
ひらけごま