しし座
大きく飽きる
絶望から始めよう
今週のしし座は、RADWIMPSの「おしゃかさま」の歌詞のごとし。あるいは、何らかの“死”に至るまでどう生きるべきかを改めて真剣に問い直していくような星回り。
馬鹿は死ななきゃ治らない/なら考えたって仕方ない
さぁ来世のおいらに期待大/でも待って じゃあ現世はどうすんだい
ならば どうすればいい?/どこに向かえばいい
いてもいなくなってもいけないならば どこに
この曲では、「神様」「来世」「天国」「地獄」などの言葉がこれでもかと使われつつも、それらを作ったのは人間の方であり、そうした人間はきわめて欺瞞的な存在であり、「馬鹿は死ななきゃ治らない」と結論づけられています。
しかし同時に、「僕」は自分が「いてもいなくなってもいけない」とも感じており、たとえ「馬鹿」であるとしても実際に「死」が訪れるまでは「現世」を生きなければならないのだと絶望しているのです。
ただ、そんな絶望は真の意味で考えるということのスタート地点でもあります。絶望してない人にとっては、どう生きるかということは「神様」が啓示すべき事柄なのかも知れませんが、神様にも絶望している「僕」が発した「ならば どうすればいい?」という問いに誰かが答えてくれることはありえず、言わばその問いに、「僕」は生まれて初めて真剣に苛まれ始めているのだとも言えます。
同様に、12日にしし座から数えて「終わり方」を意味する10番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分の手でみずからに終わり方を提示していくことがテーマとなっていくでしょう。
村上春樹「パン屋襲撃」の主人公の場合
腹を空かした「僕」と相棒がパン屋を襲撃しようとする。その本質はどこにあったのか。後に書かれた続編作品において、なぜパッとしないパン屋を選んだのかと妻に聞かれた「僕」は、次のように答えています。
自分たちの飢えを充たしてくれるだけの量のパンを求めていたんであって、何も金を盗ろうとしていたわけじゃない。我々は襲撃者であって、強盗ではなかった
けれど、襲撃は「成功したとも言えるし、しなかったともいえる」結果で終わります。僕と相棒は「パンを好きなだけ手に入れることができた」が、「強奪しようとする前に、パン屋の主人がそれをくれた」。
「もしパン屋の主人がそのとき」「皿を洗うことやウィンドウを磨くことを要求していたら」断固拒否してあっさり強奪していただろうが、主人は「ただ単にワグナーのLPを聴き通すことだけを求め」、この提案に僕らは「すっかり混乱して」しまい、その後「ちょっとしたことがあって」彼らは別れ、二度とパン屋を訪れることはなかったのでした。
この小説の時代設定は70年代頭、強奪の代わりに労働による等価交換へと若者の興味が移っていった社会の中で、あえて彼らは強奪を試みながら、「社会」の側に一枚上手の対応をされて懐柔されてしまったのだとも、あえてそこに身を委ねたのだとも言えます。
今週のしし座もまた、ひとりの「僕」としていかに社会や時代が突きつける問いに返答していくべきか、いち社会人としてどんな生き方を選択していくべきか、改めて突きつけられていくはずです。
今週のキーワード
反逆か、倦怠か、それとも絶望