しし座
やっと底が抜ける
目指せ糞かぶり
今週のしし座は、「鶯や餅に糞する縁のさき」(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、古き世界の死と新しき世界の誕生を同時に表現していくような星回り。
紀貫之の書いた古今集の序文に「花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」という有名な一文がありますが、「鶯(うぐいす)」は春の代表的な風物詩です。
ただし、掲句ではその鶯の声を詠うのではなく、縁先(縁側の外側のはし)の餅に糞(ふん)を落としていったことを詠んでいる訳ですが、これは伝統的な和歌の風雅をさっとかわして日常を詠んでいるのです。
芭蕉は晩年に入ると古典や故事に寄りかかった句はやめて、もっと見たまま感じたままの素直な句を読もうという「軽み」を大切にしていくようになりましたが、掲句はまさにその真骨頂と言えるのではないでしょうか。
またシンボリズム的にも、糞便を投げつけたり、尿を浴びせるといった行為は「格下げ」の典型的な身ぶりであり、頭でっかちな身体の上層から物事をうみ出す肥沃な下層へと向かうことで生まれ変わりや豊穣、改新と密に結びついています。
20日に自分自身の星座であるしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、思わず笑いを誘うような「軽み」を自身に引き受け、体現していくことがテーマとなっていくでしょう。
「文明の果の大笑い」
この言葉は、太宰治の短編小説『ヴィヨンの妻』に登場する自称詩人のクズ夫「大谷」の詩の中に出てくるもので、語り手は他ならぬ彼の奥さん。
一切お金を稼いで来ない上に、酒は飲むわ遊び人だわでどうしようもない旦那と、体の弱いふたりの子どもの世話をしつつなんとかしていく日常を淡々と語っていくのですが、この奥さんが凄いのはそんな旦那に対し、いっさい悲壮感や嫌悪感を出すことがないのです。
例えば、夫が妙に優しくなった後に失踪してしまい、あろうことか料亭でお金を盗んで泥棒騒ぎを起こした際も、次のような調子でした。
「またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げてきまして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。あたしは笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑い続けて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持ちの事を言っているのかしらと、ふと考えました。」
いやいや、笑ってる場合じゃないでしょと、普通なら突っ込むところですが、こうした超越的笑いは、今週のしし座にもどこか通じてくるところがあるように思います。
今週のキーワード
「人非人(にんぴにん)でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」