ふたご座
やらないようでやっている
月光的挑戦
今週のふたご座は、『月下の石二つ相呼びゐて触れず』(鷲谷七菜子)という句のごとし。あるいは、「何もしないエロティシズム」を実演していくような星回り。
隔たりつつも互いの存在を求めて呼びあう2つの石のかなしみが、「月下」という状況によってより劇的に印象付けられている一句。「石二つ」はむろん「人ふたり」の隠喩として読めますが、しかし石のようであるという想像が働くからこそ「触れず」にいるという事態が許されると同時に深まっているのであって、これが最初からただ人間そのままであったなら、哀しさも味わいもなかったはず。
それこそが、エントロピーがひたすらに増大していく太陽的な直接さやまっすぐさとは対照的な、一度リフレクションして反射したこちら側で、熱のない冷光にあてられる「月下」という状況の特殊さでもある訳です。
そして、月の形というのは今日と明日とのあいだで連続性が保たれていません。つまり、気が付くと少し前に新月だったのが「三日月になった」とか「上弦の月になった」といった調子で、パッと目を離して次に見るともう以前とは何かが変わってしまっている。
その意味では「石のよう」であるというのも、単にエネルギーの欠如とか何もしないという話ではなくて、機が熟すまで留まり続けている形の行為であって、連続していながらも非連続であるという月的な在り様に即しているんですね。
9月11日にふたご座から数えて「関係性」を意味する7番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、そうしたずっと変わらないようでいて、ある瞬間に嘘のように何かが変わってしまっているような「石二つ」を見出していくことになるかも知れません。
「やってくる」を待っている
月光的挑戦ということで思い出されるのは、精神科医の塚崎直樹が、自死の瀬戸際にある人への接し方について述べた次のような一節です。
私は精神科医になった最初のころ、自殺未遂の患者がでると、厳かに生きる意味などをお説教して、人間の生きるべき姿について大演説を行っていた。しかし、その演説に感銘を受けた患者は一人もいない。大演説を聞いて生きる決心がかたまるようなら、家族や友人の話にこころを動かされないはずはない。そのレベルで救われないからこそ、治療を求めるのだし、治療者を求めるのである。治療者が常識の世界に戻ってしまっては、その意味も乏しい。現在では、そんな演説などしなくなった。そばに黙っているだけである。語るべきこともあまりない。(『虹の断片―精神科臨床医、四八年の経験から―』)
自殺の名所で亡くなる人は、直前まで現場を何度も歩きまわるケースが多いそうですが、おそらく心を決めるために歩いているのか、断念するために歩いているのか、自分でも分からないのではないでしょうか。そして、その根底において、偶然というかたちで生きる理由がやってくることを、どこかで求めているのかも知れません。
その意味で、今週のふたご座もまた、ただただともに偶然を待ち受けていこうとするような在り方を大切にしていきたいところです。
ふたご座の今週のキーワード
黙ってそばに座っておけ