ふたご座
ふと私に話しかける誰かがいる
しょんぼりとなんてしたくなかった
今週のふたご座は、『一瞬にしてみな遺品雲の峰』(櫂未知子)という句のごとし。あるいは、言葉にならない思いときちんと向きあっていこうとするような星回り。
掲句は作者が母を亡くした際の作。「一瞬にしてみな遺品」という大胆な歌い出しを、「雲の峰」というとても大きな季語で見事に昇華してみせています。
この雄大な夏景色があったからこそ、単に「悲しい」とか「泣いた」というのでは片づかない、途方もないような感情が湧き上がってくるのであって、これがもしもっとしょんぼりとした季語であったなら、しょんぼりとした作品になっていたはず。
きっと作者はしょんぼりとなんてしたくなかったのでしょう。どんな方だったのかは詳しく分かりませんが、もし母がそばで見てくれたなら、自分を誇りに感じるような態度で見送ってやるのだと、どこかで固く決心していたように思えます。
逆に言えば、母の死という巨大な現実と闘うには、「雲の峰」くらいこちらを圧倒し、思わず背筋が伸びるような季語でなければならなかった訳で、自然と人間というのはときにこういう仕方で共鳴するのだな、と教えてもらったような気がします。
8日にふたご座から数えて「家族的無意識」を意味する12番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、じぶんが心の奥底で湛えている、言葉にならない思いに見合うような自然と向きあっていくべし。
老成のとき
無頼派を代表する作家・坂口安吾の、短い教員時代を振り返った自伝的作品『風と光と二十の私と』という作品に、「私はそのころ太陽というものに生命を感じていた」という一文から始まる箇所があり、その中に次のような一節があります。
私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。
坂口よれば、人は誰しも少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があり、ここに引用した記述もそんな「一時的な老成」の実感と関係していたのではないでしょうか。さらに続けてこう書いています。
彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。
今週のふたご座もまた、自分を根本のところで突き動かしている思いや衝動に改めて繋がっていくことになるかも知れません。
ふたご座の今週のキーワード
不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから