ふたご座
弾丸、それか運命
戦場のリアル
今週のふたご座は、『われを狙ひし弾が樹幹を削る音』(鈴木六林男)という句のごとし。あるいは、自分が身を置いている環境が“戦場”であるという実感を改めて持っていくような星回り。
掲句は学徒動員で歩兵として最前線に送られ、生死のはざまを彷徨った作者の実体験をもとに詠まれた一句。勢いあまって詠い出される「われを狙ひし」という字余りの冒頭部が、戦場をかろうじて生き抜いた作者の息遣いを感じさせてくれるとすれば、「弾が樹幹を削る音」という後半部分は、鋭く耳を切り裂く跳弾の音と、「ジュカン」などの硬質な語のイメージとがあいまって、時空を超えて戦場から遠く離れた日常にいるはずのこちらにまで「人と人とが殺しあいをしていた現実」の緊迫感を生々しく伝えてくれています。
おそらく掲句のような実際の戦場では、視覚で得られる情報以上に、聴覚でどれだけ危機察知できるか否かが生死に直結していたはず。ひるがえって現代社会では、SNSなどの情報プラットフォームや“注意経済”が圧倒的に視覚を通して人々の行動や選択を左右しているという決定的な違いはあるものの、不安や恐れが人々の主要な動機付けとなっているという点では約80年前の戦場とほとんど変わっていないのではないでしょうか。
その意味で、闇や影にとぼしい平和な街中にすむ我々は、それでも置かれた環境のなかで、みずからの聴覚に訴えてくるものがどんな意味を持つのか、考えなければなりません。
6月4日にふたご座から数えて「向きあうべきもの」を意味する7番目のいて座の満月に向け月が膨らんでいく今週のあなたもまた、現代という戦場を生き延びるためには何が必要なのか、相応の危機感とともに見定めていくべし。
ひとつの運命としての詩
僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、二十三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやつて来た見知らぬ男が、いきんなり僕を叩きのめしたのである
これは小林秀雄による有名な『ランボオⅢ』(1947年)の書き出しですが、なぜランボーはそれだけの衝撃と魅力とを持ち得たのか。それはランボーが六林男と同様、作品だけでなく人間としても詩を生き切ったからでしょう。
19歳からのわずか3年で膨大な数の詩を書き上げた後、彼は詩を捨てて旅の商人となり、最後はアフリカの砂漠で生を終えたその鮮烈な生き様に、多くの人が詩の神髄を見たのだと思います。では、ランボー自身は詩やその使命についてどう考えていたのか。間接的ではありますが、ある手紙の中で彼は「詩人は、その時代に、万人の魂のうちで目覚めつつある未知なものの量を、明らかにすることになるでしょう」と述べています。
運命を見つめるとは、あるいはこういうことを言うのかも知れません。それはやはり小林のようにそれなりの衝撃を伴って訪れるものであるはず。今週のふたび座もまた、相応の構えをなしていくべし。
ふたご座の今週のキーワード
戦場と日常の接近