ふたご座
主語を曖昧にしていく
主体性を譲れる生活感覚
今週のふたご座は、能登半島に伝わる「アエノコト」という祭礼のごとし。あるいは、自分の主語に他者の、誰かの主語を重ねていこうとするような星回り。
奥能登地方に今なお伝わる「アエノコト」という祭礼では、毎年12月4日か5日頃、収穫の後に1年間の収穫の感謝と次年度の五穀豊穣を祈願するため田の神を家にお迎えします。
そのため、その地方では家の最上の場所に、姿かたちの見えない田の神の滞在するための部屋があり、意を尽くしておもてなしをするのですが、普段は空き部屋となっているのだそう(つまり年に一度、田の神をお迎えするためだけの部屋があるということ)。
このように、生活空間のなかにもう1人の家主(自然神/生産神)のようなものが同居することによって、ひとつの家の意識が形成されてきた訳ですが、これは貴重な古き良き伝統であると同時に、じつに美しい習慣だとも思います。
すなわちこれは、いつでも自分の主体性を他者に譲れるという生活感覚であり、他者への感謝を忘れぬためのランドスケープデザインであり、そういう生活態度から芽生えたいろいろな知恵が、ほんの数十年前までは日本列島を覆っていた訳です。
11月30日にふたご座から数えて「個人を超えたもの」を意味する10番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「私が…、私が…」と自我を主語にしてきた近現代の主語的世界の破綻に歯止めをかけていくことがテーマとなっていくでしょう。
河原に響きわたった「淫声」
例えば、18世紀後半の京都の四条河原では「女かぶき踊り」の喧噪が起こっていた様子が円山応挙によって描かれています。そこではあでやかな小袖の重ね着や長大な銀キセル、風にのる伽羅の薫りなどをまとって、遊女や女芸人などの女性芸能者たちが、琵琶法師の打ち鳴らす三味線のリズムにのって、歌や踊りを披露していたのです。
当然、そのまわりには誘い合わせて多くの人びとや商人たちが集まり、芝居見物に会食、買い物、あいびき、喧嘩、夕涼みなど、思い思いの過ごし方でその場を楽しんでいました。そこには息の詰まるような日常で削られ消耗した生命を取り戻すための、最後の手段としての「淫」の声があり、集まった人びとはそれに身をまかせ、相応じて、生のことや死のことや、水のことや火のことについて想いを巡らせていったのです。
「河原」とは、もともとそういう場所だったのであり、文化というのはいつの時代も、そうしたちょっと胡散臭いけれど、たまらなくエロティックで猥雑な「境界線」の場所から生まれていったのではないでしょうか。その意味で、今週のふたご座もまた、そうした主語が曖昧になる場所での活動に堂々と身を投じていきたいところ。
ふたご座の今週のキーワード
仏像のごとく