ふたご座
便利じゃない方が面白い
脱AI化の必要
今週のふたご座は、「あのね、人間は機械じゃないからね、ただ命令しても言うことなんて聞いてくれないの」という自己教育をしていくような星回り。
グローバル経済はAIの導入という後押しを得て、「AIを導入すれば、煩わしい手動作業や人間関係の摩擦を省略し、便利な生活が手に入りますよ」といった消費者への売り込みを劇化させていますが、そうして私たちはなし崩し的に便利さを押しつけられる一方で、その分なんらかの人間としての能力を失いつつあるのではないでしょうか。
AIが普及して当たり前のように生活に浸透すれば、私たちは「命令すればor呼べば、なんでも応えてやってくれる」ことに慣れていくでしょうし、それは逆に言えば、「言ってもなにもしてくれない」という他者への不満を大きくしていくということでもありますし、必然的に他者との関係そのものが分からないという子供も増えてくるかも知れません。
つまり、AIの普及に応じて私たちが迫られていくAIとの共生には、私たち自身が人間としての能力を保ったり、そもそも人間固有の能力とは何かということを再発見していく必要があり、その前提としてAIと同化してしまわないよう脱AI化を図っていく必要があるように思います。
29日にふたご座から数えて「学習と成長」を意味する3番目のしし座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、どういう方向へ自身を教育していくべきか、またしていくべきではないかということを、ひとつ考えてみるといいでしょう。
物事を深く「知る」ための祭式
現在のところ人間には可能だけれどAIには不可能な体験のひとつに、夢見が挙げられます。日本では昔から「夢の通い路」といったことがしばしば歌われてきましたが、これは夢には魂が他の魂や神仏と交わりあう通路があるのだという考えによっており、かの聖徳太子が寝殿のそばに「夢殿」という建物を建て、事あるごとにそこにこもって眠ったのも(七日七晩こもったこともあるという)、聖夢を得て神仏のお告げを受け取るためでした。
西郷信綱によれば、「古代にあっては夢はたんに自然的に見られるだけでなく祭式的に乞われたのであり、しかも古代人はこの後者の方をいっそう大事としていた」(『古代人と夢』)そうですが、祭式である以上、日常とは違う手続きを要求され、それは例えば「浄休して祈みて寐たり。各夢を待つ」(崇神紀)という記録などにも垣間見られます。つまり、食を断ち、禁欲し、俗世間からみずからを隔絶させることで初めて、夢見の祭式は成立するものとされ、それは仏教伝来以前からの古い伝統に根差した暗黙の了解でした。
今週のふたご座もまた、機械と違って「命令するだけじゃ言うことを聞いてくれない」ものの代表として、自身の夢との付き合い方に改めて自覚的になってみるといいかも知れません。
ふたご座の今週のキーワード
“やってくる”体験