ふたご座
私のユリイカ
裸足の地点
今週のふたご座は、「秋の暮尿瓶泉のこゑをなす」(石田波郷)という句のごとし。あるいは、心の奥の声となまの実感との一致をふとした瞬間に感じていくような星回り。
これは病人、とくに療養生活をしたことのある人にはよく分かるだろう一句。ベッド下に置かれている尿瓶(しびん)は、最初こそどう使ったらいいものか戸惑うのですが、人間慣れてしまえば平気で人のいる中でも用を足すことができるようになるから恐ろしいものです。
最近はプラスチック製が増えましたが、かつては尿瓶と言えば透明なガラス製で、そこに透く尿をすこしも汚いものとは思わなくなる。また、仕方によってはかすかないい音がして、作者はそれを「泉のこゑ(声)」という美しい言い方で捉えてみせた訳です。ことに、朝晩はだいぶ冷えるようになってきた秋の明け方や日暮れには、その感じが強かったのでしょう。
考えてみれば、用を足す音をこうして詩化したというのは、小手先だけでは決してできない、容易ならざる覚悟によって初めて為しえたことであり、しかもしれを俳句の中に込めてみせるのは真の詩人にしかできない至難の業(わざ)と言えるでしょう。
10日にふたご座から数えて「裸一貫」を意味する2番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「きれい」と「きたない」が交錯していく自分なりの裸足の地点にそっと降り立っていく感覚を実感していくことができるはず。
自然のリズムに任せる
詩人の加島詳造が現代語に訳し直した老子の一説に、次のような一節があります。
美しいと汚いは、別々にあるんじゃあない。美しいものは、汚いものがあるから美しいと呼ばれるんだ。善悪だってそうさ。善は、悪があるから、善と呼ばれるんだ。悪のおかげで、善があるってわけさ。
これはまさに、石田波郷が冒頭の句で詠んでみせた「泉のこゑ」のことではないでしょうか。
だから、道の働きにつながる人は、知ったかぶって手軽くきめつけたりしない。ものの中にある自然のリズムに任せて、手出しをしない。すべてのものは生まれでて、千変万化して動いてゆくんだからね。(加島詳造『タオ 老子』)
そう、言葉の意味や概念もまた、時代や社会の変化とともに千変万化していく。今週のふたご座にとっても、そうした変化の自然なリズムに自分の実感を添わしていくことが一つの鍵となっていくはずです。
今週のキーワード
人間のこさえた善悪を超えて