ふたご座
何を諦められないのか?
治癒の秘密
今週のふたご座は、無明の底でごみ箱に入って患者に土下座した加藤清医師のごとし。すなわち、どうしようもない現実について、ある種の<諦め>を深く遂行していくような星回り。
今はもう使われていない表現ですが『分裂病者と生きる』(1993年)という本があって、その中で編者のひとりである加藤清がまだ若い精神科医だった頃のエピソードとして次のような話が語られています。
いわく、壁面に頭を打ちつけて自傷行為をやめない患者を前にして、誰も何もなす術がなくなり、無力感にかられてみな呆然として立ち尽くしていたと。
そのとき、加藤は突然、病室の隅にあったゴミ箱の中に入って土下座した。すると、それまで誰が何を言おうとしようと自傷行為をやめなかった患者が動きを止めて、加藤に注意を向けた。そして、その瞬間から治療行為が進み始めていったというのです。
加藤はなぜ、わざわざゴミ箱に入って土下座したのか。
あえて言いきるならば、ここにはあらゆるレベルの治療や治癒という現象の秘密が現れているように思いますし、それは今のふたご座にとっても非常に大切な指針になってくるでしょう。
加藤のしたことは、ある種の「超越」行為と言えますが、同時にそこには「自分ではどうにもならない」「救えない」といった患者の苦悩に対する諦めの深さと祈りの切実さがあるという点で、権力構造を伴なう操作や圧倒、マウンティングなどとは決定的に異なっているのです。
今週は自分を取り巻く現実全体をぼんやりと見つめつつ、そうした<諦め>ということに心を留めていくといいかもしれません。
ロールモデルとしての釈迦
加藤は『癒しと森』における平井孝男との「宗教体験と心理療法」と題した討論の中で、人間存在そのものが背負わされている宿命としての「無名性」と、そこから派生してくる「無名感情」とを分けた上で、総じて統合失調症患者は無名感情が強く、無名そのものを認識できないのに対して、健康人は無名感情が薄く、その反面、「無名に対する積極的態度を取りうる健康性はある」と分析しています。
そして、加藤はこの両方、すなわち深い無名感情と無名性の積極的認識の両方を徹底していったのが釈迦であるとし、「無明そのものを直視し、それを突き抜けて明の世界に突き抜けていった人もいます」と端的に紹介しています。
さて、ここで改めて、無名とは一体何なのでしょうか?
ひとつの道筋としては、「諦める」の語源が「明らむ(あきらむ)」つまり「つまびらかにする」から来ており、それを踏まえ「無‟名”」を言い換えるならば、何も諦めることができない状態を指しているという風に考えられます。
今週のキーワード
無明性と無明感情