ふたご座
無意味を超えて
アウトサイダーとは何者か?
今週のふたご座は、「アウトサイダー」という仮面をかぶってインサイダーへの批評性を担保させていくような星回り。あるいは、終わりなき日常からの逸脱を宣言していくこと。
アウトサイダー・アートという言葉を見かけることも増えてきた昨今ですが、1950年代、アウトサイダーという言葉をひとつの生き方として見出そうとしたのが、当時若干26歳のコリン・ウィルソンであり、その処女作である『アウトサイダー』でした。
「自分がもっとも自分となるような、つまり最大限に自己を表現できるような行動方式を見出すのが「アウトサイダー」の仕事である。……「アウトサイダー」は、たまたま自分が幸運に恵まれているから世界を肯定するのではなく、あくまでも自分の「意思」による肯定をしたいと願う。」
ただし、そうした願いの前提には、自分にはさしたる才能もなければ、達成すべき使命もなく、これといって伝えるべき感情もない。そんなものあるはずもない、という「持たざる者」としての怜悧な自覚があるのでなければならない。
生きる意味などないし、自分は無力だ。それでもなお、何らかの意味や目的を欲して、苦闘していくことになる。その永い苦闘のことをコリン・ウィルソンは「アウトサイダー」と呼んだ訳です。
さて、自身のうちに棲みついた「アウトサイダー」とどうして付き合っていこうか。そんな問題をめぐって、ひとつの踏ん切りをつけていけたなら、今週はきっと飲み越すビールの味も変わってくるはず。
何かが起こりそうな気配を捉える
現代社会に暮らす私たちは、同じようなことばかり起こる日常の連続をごくごく平凡なことだとか、代わり映えしない退屈なことと思いすぎる傾向があります。
そこで、何か劇的な変化を求めてついつい変わったことをして有名になろうとしたり、海外旅行へ行ったり、家を変えたり、酔っ払らおうとしたりする。
けれど、何かが起こりそうな気配の発生してくる震源地というのは、非日常ではなく、むしろ日常の中に埋没して在るものです。一見、何も起こらない‟閑静な”シーンにこそ、目を向けるべき対象は潜んでいる。例えば、
「あの三流の付き人を演じているのは、一流の役者かも知れない」
といった、「ひょっとしたら」の感覚。それが幾度か重なり、「まさか」の渦となって高揚し始めてきたとき、人は「アウトサイダー」としての一歩を踏み出していくのだと思います。
今週のキーワード
幸運ではなく意思のもとに