やぎ座
ひょっこりはん
略して「たそ味」
今週のやぎ座は、泉鏡花の「たそがれ趣味」のごとし。あるいは、自分が心の底で信じている当のものについての本音が誰かどこかに漏れだしていくような星回り。
泉鏡花といえば、旅するお坊さんが蛇や蛭が大量に出てくる山道を進んだ先の一軒家での不思議体験を追憶する代表作『高野聖』のように、日常と地続きにありながら、非日常的な存在がひょっこり姿を見せたかと思えばたちまち消えていく怪異ものの書き手というイメージがありますが、その本質に迫っている「たそがれの味」という短い随筆があります。
これは厳密には記者が取材した際のこぼれ話を記者が勝手に書き起こして発表されたものなのですが、「私の信仰です」という強い言葉を使って述べているのが「たそがれ」ということについてなのです。
たそがれは暗でもない、光でもない、また光と暗との混合でもない。光から暗に入り、昼から夜に入る、あの刹那の間に、一種特別に実在する一種特別な、微妙なる色彩の世界が、たそがれだと思います。(…)夕暮れとか、朝とか云う両極に近い感じの外に、たしかに一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。(…)このたそがれ趣味、東雲趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間のあらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思います。(…)一種中間の味わいを、私は作の上に伝えたいとも思っております。(『鏡花全集 巻二十八』)
例えば、人間の生きざまにしても、それが悪から善に入る刹那であったりその逆であったりするような、白黒つけられない「一種微妙な世界」に入っていったところに、なにか得体の知れない美しいものが在るのではないか。そんな風に鏡花は考えていたのではないでしょうか。
同様に、9月11日にやぎ座から数えて「得体の知れないところ」を意味する12番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、そういう普段は人に言えないような勘所について思いがけず誰かどこかに語っていくことになるかも知れません。
2種類のあの世っぽさ
最近、ネットではAIが入力されたキーワードに応じて自動生成した画像で溢れていますが、たとえば「あの世っぽい風景」など、実際に経験した人が誰もいないために、いくら「ぽい」ものが出来上がったとしても、本物にどの程度近いのかを確かめようのない画像の類いというのがどうしても出てきてしまう訳です。
ただ、「あの世っぽい風景」というものには、2つの典型的なパターンというものがあって、ひとつは霧立っていたり、靄が垂れこめているような朦朧とした光景で、その曖昧さや視界の悪さが、どこか神秘性を感じさせるというもの。
そしてもう一つが、それとは真逆の、異様に鮮明でシャープに映る光景です。現実にはありえないような解像度で、不気味なほどに鮮やかな色彩が映りこんでいたりすると、それが例えごく普通の日常的な風景であっても、途端に尋常でない雰囲気を醸し出すのです。
おそらくそれは、あの世というものが、この世の人間であることから解き放たれなければ決して見えてこない世界としてあるからなのでしょう。例えば皆既日蝕の際に、急に青空が真っ暗に翳り、雲が静止して、あたりの建物などがシャープ過ぎる輪郭線で縁どられていった時なども、そうした当たり前の風景の「あの世化」の一例と言えます。
その意味で、今週のやぎ座もまた、どこかで自身の内なる風景がつかの間の「あの世」へと変貌していくことがあるかも知れません。
やぎ座の今週のキーワード
風景のあの世化