やぎ座
説明のつかぬ夢が
「我」を出しながら「我」を消す
今週のやぎ座のテーマは、観念から観念へではなく、感応から感応へ。あるいは、理屈を超えたところで起きてしまうある種の営みに打ち興じていくような星回り。
公の場で「誤解を恐れず」に自身の言葉を語れる人間が、今の時代非常に少なくなってしまいました。それはSNSの発達やネット社会の興隆によって、少しでも角の立つ発言をするといちいち炎上したり、事後的に追及されることが増えてしまったからという背景がある一方で、何よりリスクを犯してでも世の中に言いたいことが出てくるほど、何かに確信をもつという機会自体を、ほとんどの人が失ってしまったからではないでしょうか。
ただそんな中、気炎を吐いているのはやはり芸術家であり、その一人に横尾忠則がいます。彼は自身のエッセイの中で、神へのメッセージを絵にしている画家ハワード・フィンスターなどのアウトサイダー・アートを取り上げ、「芸術家は『描いている』のではない。『描かされている』のである」と述べつつ、次のように語っています。
宇宙の愛(それは狂気でもあるらしい)の波動がぼくの身体を装置として、送信されてくるとき、ぼくの作品は宇宙の愛に満たされるという。そんな宇宙や神の道具となることは一種の歓びでもある。天上界は一種の相似形をなしている。両界で影響し合っているのである。その認識が近代の自我を消すのである。芸術家の自我は「我」を出しながら「我」を消す作業でなければならない。絵画が観念から観念へではなく、感応から感応へと語りかけるとき、本来の神の芸術が機能することになるはずだ。(『名画感応術―神の贈り物を歓ぶ―』)
こんなことを堂々とエッセイに書く人はまずいません。何より、書こうと思っても書けないでしょう。しかし5月1日にやぎ座から数えて「実存」を意味する2番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたなら、狂気の裏返しとしての愛を受信したり、はたまた送信したりすることができるかも知れません。
三上寛の『夢は夜ひらく』
ここで思い出されるのが、かつて田舎者丸出しでライブに登場した三上寛です。彼は、当時すでに藤圭子がカバーするなど、誰もが知っていた『夢は夜ひらく』に、オリジナルの歌詞をのせて歌い、彼の『夢は夜ひらく〜あしたのジョーなんかきらいだ』(1971)は伝説となりました。
七(質)に二(荷)をたしゃ九(苦)になるが
九(苦)になりゃまだまだいいほうで
四(死)に四(死)を足しても九(苦)になって
夢は夜ひらく
サルトル マルクス 並べても
明日の天気は わからねえ
ヤクザ映画の看板に
夢は夜ひらく
八百屋の裏で泣いていた
子ども背負った泥棒よ
キャベツひとつ盗むのに
涙はいらないぜ
生きていれば、みずからの胸のうちに苦い思いが溜まってしまうことがあるもの。しかし、そこでただありきたりな観念に乗せて愚痴るのではなく、感応を通してひとつの「夢」へと昇華させていくなかでこそ、人は救われていくものなのではないでしょうか。
今週のやぎ座もまた、そんな感応を通して口や手を突き動かしてくるものをしかと受け止めていくべし。
やぎ座の今週のキーワード
「私が自分に問いかけるとき、私自身の奥底から説明のつかぬ夢が、生れでる。」(ミシェル・フーコー『狂気の歴史―古典主義時代における―』)