やぎ座
からっぽごろごろ
最終手段としての昼寝
今週のやぎ座は、『夢殿にもたれて冬の一日かな』(松瀬青々)という句のごとし。あるいは、意識の隙間にじゅうぶんな余白を与えていこうとするような星回り。
法隆寺の夢殿で詠まれた作で、よく晴れた小春日和にひなたぼっこをしながら、うつらうつらと白昼夢でも見ているような一句。
古代日本において夢見は、国家規模の災難において神意を得るための祭式的行為であり、ある種の最終手段でした。例えば、西郷信綱が『古代人と夢』において紹介しているように、疫病が大流行し、人々がみな死に絶えてしまうような事態に陥ったとき、天皇が「神床(カムドコ)」に寝て夢のお告げを得たことで、やがて疫病はおさまり国家安平になったのだと。
もちろん、掲句からはそんな差し迫った緊張感はみじんも感じられませんが、案外、大事なお告げというのも、縁側に猫でも転がっているような何気ないシチュエーションの中でもたらされているのではないか、などとついつい考えてしまいます。
ただし、ほとんどの場合は目が覚めた拍子に、夢の内容をきれいさっぱり忘れてしまう訳ですが、それだって猫の方がよっぽど夢を覚えているということだってありえるはず。
12月5日にやぎ座から数えて「インスピレーション」を意味する9番目のおとめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、せめて起きた後にゆっくりと夢の内容を思い出すくらいの余裕はもっていきたいところです。
間を空ける
内面に沈黙をつくりだし、いっさいの欲望、いっさいの意見に口をつぐませ、愛をこめ、たましいのすべてをあげ、言葉にはださずに、「みこころの行われますように」と思いをつくすとき、次にこれこそどうしてもしなければならぬことだと、あやふやさの一点もなく感じられることがあったら、(もしかすると、ある点では、これも思い違いかもしれないのだが……)それこそ、神のみこころである。(『重力と恩寵』、シモーヌ・ヴェイユ、田辺保訳)
人間が神のみこころそのものを直接的に知ることはかなうことはないのだと思いますが、祈りにおいて個別的な事柄や思惑を頭の中から祓われていくということは、そう珍しいことではないでしょう。
少なくとも、ヴェイユの言うようにじっと目をこらして、観察し、自分自身に問いかけることを怠らなければ、どんな行動、あるいは態度を選択していくべきかをはっきりさせていくことはできるはず。
その意味で、今週のやぎ座は内面に沈黙をつくりだし、「空虚な器」になりきっていくことがテーマなのだとも言えるかもしれません。
やぎ座の今週のキーワード
「みこころの行われますように」