やぎ座
揺らぎの中で立ち現れるもの
1つの実体の異なる現われ
今週のやぎ座は、『蝶われをばけものとみて過ぎゆけり』(宗田安正)という句のごとし。あるいは、合わせ鏡のなかでちらりと真実を垣間見ていくような星回り。
俳句で蝶は、春という季節を代表する可憐な小動物として知られ、明るくのどかな景色の一部として客観的に詠まれることがほとんど。ところが、掲句では蝶の側に立ってそこで主観的に捉えられた「われ」のイメージが詠われています。
いわく、突然あらわれた人間の「われ」は「ばけもの」のようであると。それは突拍子もない出鱈目(でたらめ)のようにも感じられますが、有効視野が150度ほどと言われるヒトとは異なる、360度に近い視野をもつ複眼という“別の仕方で”でとらえた真実なのかも知れません。
ただしそうした「蝶」の抱いたイメージが、なぜだか「われ」に伝わってしまっている以上は、「われ」と「蝶」は同じ実体から生じた異なる現われに過ぎず、本当は「われ」も自分が「ばけもの」かも知れないということをすでに知っていたのではないでしょうか。
だとすれば、掲句の「蝶」は蝶であって蝶ではなく、ギリシア語では蝶という語が同時に「たましい」や「気息」をも意味していたように、「ばけもの」の実体をなまめかしく伝えてくれる何かでもあるはず。
28日にやぎ座から数えて「借入」を意味する8番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした自分が向きあっていかねばならない真実をつまびらかにするための手鏡のごとき存在に、どこまで力を借りることができるかが問われていきそうです。
E・ヤコビーの『火の種撒き』
ここで思い出されるのが、夕闇に覆われた街の空に、巨大な姿をした幽霊のごとき「種撒き男」が、火の粉のような種を撒いている1枚の絵画です。男は街に炎をまいているが、それは一種の見えない火であり、街の方はそれに気付いていないし、火災も実際にはどこにも起こっていない。
一見するとつかみどころのない絵なのですが、深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは「この絵はたがいに浸透し合いながら触れ合うことのない、二つの世界の懸隔(けんかく)を描いている」のだと見立てました(『変容の象徴―精神分裂病の前駆症状―』)。
なるほど、巨大な種撒き男は開けた野原と人間の住んでいる街のどちらにも火をまいているが、それは無意識と意識、野生と文明、身体と頭、女と男など、あらゆる二元性の隠喩であるかもしれず、撒かれた火は「焼き尽くす」ことで破壊的な浄化をもたらす議論の「口火」であるのかも知れません。
今週のやぎ座もまた、傷つかない範囲内でのみ活動するのではなく、その“外”と“内”とのはざまに立っておのれを大いに揺らがせてみるべし。
やぎ座の今週のキーワード
小さな自我と大きな自己