やぎ座
自伝の編み直し
裏の私、表の私
今週のやぎ座は、アントニオ・タブッキの短編『逆さまゲーム』の結末のごとし。あるいは、ストーリーを通して自伝的日常を生きていこうとするような星回り。
簡潔にあらすじを述べると、語り手である「私」は、ある夜とつぜん、かつてより恋人同然の付き合いをしてきたマリア・ド・カルモという女性の死を告げる国際電話を受けとり、リスボンにいるマリアの夫を名乗る老紳士に、こちらに来て葬儀に参列してほしいと頼まれる。
ところが、「私」を広大な屋敷に迎えた老紳士は、電話とは裏腹に冷淡な対応に終始し、今日葬られようとしている自分の妻は、高貴な家柄の女で、どこの馬の骨とも知れない若輩者と付き合う人間ではないし、お前は夢でも見ていたのだと意地悪くいって、「私」をひどく混乱させます。しかしその後、暮れなずむリスボンの街を眺めながら、選択の余地などないまま老紳士の妻となっていった元恋人の人生についてノスタルジックに追憶していった末に、小説は「今日こそ、マリア・ド・カルモは自分自身の<裏がわ>に到着したのだ」という「私」の納得で終わるのです。
ここでは、そんなマリアのモデルが実在の誰であったのかということは脇におくとして、作者のタブッキは明らかに、この<裏がわ>の世界と自身の作り出した<文学>ないし<虚構>の世界とを結びつけていることがうかがえます。
つまり、最後の「私」の述懐は、彼女がその時点でやっと虚構の世界の市民権を得たことを宣言したものであり、タブッキは自身の文学創造を通じて、どうしても素材として用いてしまうみずからの伝記的データに閉じ込められ、身動きできなくなる危険を回避したのではないでしょうか。
それと同様に、6月21日にやぎ座から数えて「もう一人の自分」を意味する7番目のかに座に太陽が入る夏至を迎えていく今週のあなたもまた、現実とは異なる<虚構>のストーリーの侵食を受けることで、新しい創造を経た自伝を編み直していくことになりそうです。
自分以上に自分らしいということ
いまや累計1000万部を超える大人気シリーズとなった北方謙三の『水滸伝』は、もともと明代の中国で書かれた伝奇歴史小説を蘇らせたものですが、そのままではあちこちに矛盾や不自然さが目立つ「ヘンな物語」であるオリジナル版を大胆にも解体し、経済面や政治的要素を独自に設定しつつ再構成していくことでこの大仕事は成し遂げられました。
ただ、北方版の最大の魅力は何と言ってもキャラクター造形の妙でしょう。例えば、オリジナル版では腐敗した政府に抗する反乱軍のリーダー・宋江(そうこう)がなぜ豪傑たちのリーダーなのかさっぱり分かりませんでした。
地方都市の小役人上がりで、武に秀でる訳でもなく、見栄えもしない。完全に神輿の上にいるだけの聖人君子キャラなのですが、北方版では「人の痛みや悲しみに寄り添わんとする深い決意」を持ち、同時にどこか「鈍感」で「女好き」な人間臭い人物として描きなおし、それが物語に命を吹き込んだ訳です。
「ストーリーの侵食を受ける」というのも、こちらの思惑を超えたところで、自分以上に自分らしいとしか思えない要素が次々と現れてきてしまうということであり、今のあなたが目指すべきも、そんな自伝を生み出していくことにあるのだと言えるでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
虚に居て実をおこなふべし