やぎ座
<私>をめぐる取捨選択
菜の花としての<私>
今週のやぎ座は、「菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか」(櫂美知子)という句のごとし。あるいは、自分自身の扱い方について、大胆で堂々とした断固たる態度を取っていくような星回り。
あどけなき黄金世界の象徴のような菜の花畑をズームアップして、それを1本の花と見立てたとき、それを花瓶に挿して飾るか、茹でておいしく頂くか、というところまでは普通の考えですが、「見捨てる」の一語にぎょっとする人も多いのではないでしょうか。
ですが、その一語によって、かえって「挿すか茹でるか」という選択肢が当たり前のものではなかったことに気が付かされる訳です。
というのも、ここでいう「見捨てる」とは、恐らく何もしないで放置するということであり、そして一本の花とはひとりの魅力ある人間が開花した姿として解釈するとき、確かに自分のことを放置したり、粗末に扱ってしまう人というのは案外少なくないからです。
そこまで考えて掲句を見直してみると、「菜の花」の明から始まり「見捨てるか」という問いかけの暗で終わっているコントラストが、改めて際立って感じられてくるはず。
今週は当たり前のことを当たり前に選ぶためにも、自分はどんな選択肢を選ぶべきではないのかということについてきちんと考えていきたいところです。
<私>を再構築する
批評家の安藤礼二は、江戸川乱歩は作品を書くことによって「女」になろうとしていたし、そのために「私」を徹底的に分断して、自らの想像力のみを駆使してまったく新しい理想の「女」として再構築していったのではないか、と指摘しています。いわく、
「女になること。その場合の女とは、肉体的な現実をもった女ではない。乱歩の「女」とは、生物学的な「差異」でも、制度的な「差異」でもない。逆にその「女」はさまざまな「差異」を生み出す地平、絶対的な「官能性」とでも名づけるほかない領域に存在する。それは森羅万象のすべてを官能として受容する純粋な感覚世界の新たな想像であり、その感覚の全面的な解放である。」(安藤礼二、「鏡を通り抜けて 江戸川乱歩『陰獣』論」)
乱歩ほど徹底的に実行できるかはさておき、今週のやぎ座の星回りにもまた、「私」を再構築することへの情熱のようなものを感じてなりません。
あなたは自分が救われるために、一体何を望んでいるのでしょうか。その夢想の根底へと一歩ずつ、しかし着実に歩を進めていくことです。
今週のキーワード
自分を大切に扱っていくために