やぎ座
メメント・モリの血肉化
「半眼」の視線
今週のやぎ座は、「夏真昼死は半眼に人をみる」(飯田蛇笏)という句のごとし。あるいは、冷徹なまでに人を突き放す自然のまなざしを借りるようにして、おのれを見つめていくような星回り。
ときどき、やぎ座の人たちのあの首をかしげたくなるほどシビアな現実主義は、いったいどこから来るのだろう不思議に思うことがある。
やぎ座の守護星である土星は物事の終わりを司る星であり、生物にとって終わりとはすなわち自身の「死」であるはずだから、かの「メメント・モリ(死を忘れるな)」の精神がもっとも根深く宿っているのが、やぎ座の人たちなのだと考えると納得だ。
しかし、掲句ほどにそうした「メメント・モリ」の警句を血肉化した言葉を、筆者は他に知らない。
川も海も太陽も、その素顔をチラリとでも垣間見せれば人間などひとたまりもないが、そんな自然から送られてくる不気味な「半眼」の視線をきっと作者は日頃から誰より身近に感じていたのだろう。
今週のあなたも、「半眼」をもって自身やその営みを見つめていくことができるかもしれない。
ルソーの散歩
18世紀にルソーが「自然に帰れ」という言葉を流行らせて以降、自然保護ということを殊更に強調する文化の下地がヨーロッパを中心につくられていったようになりました。
しかし一方で面白いのは、ルソーによる「自然の発見」以前には、自然は畏怖されるべきものではあって、気軽に親しんだり、ましてやレジャーやスポーツのフィールドとして見なされるような対象ではなかったという点。
つまり、彼こそは世界に‟片隅”を発見していく者の偉大なる先達のひとりな訳ですが、その様子がよく分かる一例を、彼の晩年の著作である『孤独な散歩者の夢想』から引用してみましょう。
「たそがれが近づくと、島の峰をくだって、湖水のほとりに行き、砂浜の人目につかない場所に坐る。そこにそうしていると、波の音と、水の激動が、僕の感覚を定着させ、僕の魂から他の一切の激動を駆逐して、魂をあるこころよい夢想の中にひたしてしまう。そして、そのまま、夜の来たのも知らずにいることがよくある。この水の満干、水の持続した、だが間をおいて膨張する音が、僕の目と耳をたゆまず打っては、僕のうちにあって、夢想が消してゆく内的活動の埋め合わせをしてくれる。そして、僕が存在していることを、心地よく感じさせてくれるので、わざわざ考えなくてもいい。」
こういう文章を読んでいると、散歩というものもにわかに気分転換以上の意味を帯びてくるような気がしてきます。
今週のキーワード
自然との距離感