かに座
何ばしとるか?
次第に我が消えていく
今週のかに座は、『背戸畑の芋名月となれりけり』(木下夕爾)という句のごとし。あるいは、数々の「無名の人生」に思いを馳せていくような星回り。
「背戸(せど)」とは家の裏口のこと。なので、「背戸畑(せどばた)」とは家の裏手にある畑くらいの意味でしょう。普段なら気にも留めないような場所です。
しかし、中秋の名月の時節には、そういう場所にこそしみじみと風情が生まれてくるのだ、というのです。「芋名月」という、いかにも鄙びた語感をあえて選ぶことによって、たとえ都会に生まれ育った人間であっても、ふしぎな臨場感を伴って作者の描いた情景がありありと浮かんでくるはず。
その意味で、ここに詠まれているのは人びとの喝采だとか、人に自慢したくなるような名誉とは無縁の仕事。けれど、風景の一部となってひそかに人びとの暮らしに寄り添い、支えてきたなくてはならない仕事。そして、そういう仕事に黙って勤しんできた人間の尊さでしょう。
こうした仕事観は、「インフルエンサー」となって、きらびやかな暮らしを送ることが「成功」という言葉と結びつけられがちな現代社会では忘れ去られつつありますが、歴史的には仕事に打ち込んでいくうち、次第に我が消えていくことこそが理想とされた時代の方が長かったのではないでしょうか。
9月29日にかに座から数えて「天命」を意味する10番目のおひつじ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、すすんで“芋くさい”人間になっていくべし。
良寛さんの場合
ここで思い出される話に、中国禅宗史研究者の柳田聖山氏が書いていた江戸後期の僧侶で詩人でもあった良寛にかんする逸話があります。
失ったものが見つかった時くらい、うれしいことはない……こんな言葉を、ある人から聞かされて、良寛はさっそく、自分で試してみる。道ばたに銭をおとして、自分で拾いあげてみるのだが、別にちっともうれしくない。何度やってみても、同じである。あの人の言うことは、嘘であったか。/そのうち、銭が草むらにころがりこんで、どこにも見つからぬ。何度、探しても無駄である。和尚は、次第に心配になる。/良寛さん、何ばしとるか。/通りがかった村人が、一緒になって探してくれる。良寛さんは、銭を足の下にふみつけていたことが、やっとわかった。今度は、ほんとうにうれしい。あの人の言うことは、嘘ではなかった。(『十牛図―自己の現象学―』)
銭が見つからないだけで、人は大慌てになります。健康だった人が、急に大病したり、命の危機に瀕すればなおさらでしょう。けれど、私たちは、肩書きや財産ではない、ほんとうの自分が何であるか分からなくても大抵は平気でいます。それが、何かの折に、気になりだして、いても立ってもいられなくなったりする。
宗教というのは、そういう狂気を引き出す麻薬であり、またそうなってしまった人を受け入れてくれる器でもある訳ですが、後者のような時に大事になってくるのが、掲句の「背戸畑」だったり、そこにそっと差し込む月の光だったりするのではないでしょうか。
かに座の今週のキーワード
足の下にふみつけていた銭