かに座
いのち思えば月の影
さりげない手つきで
今週のかに座は、『魚籠(びく)の中しづかになりぬ月見草』(今井聖)という句のごとし。あるいは、じかにいのちに触れていこうとするような星回り。
川釣りだろうか。釣り上げた魚を魚籠のなかに入れ、魚はしばらく音を立ててあばれていたが、ついに静かになった。
これはある意味で、作中主体である釣り人が殺したことを意味する。しかし、「魚籠の中」と場所は示されつつも、「しづかになりぬ」の主体は具体的には語られない。代わりに、月見草が夕暮れを告げており、さりげなく句の結びに置かれたこの花にこそ鎮魂の意が託されているに違いない。
この釣り人は、生きていくために魚をとり、日常のなかに死がある。そのことを歌にすることで、自分自身だけではなく、みずからの生を支えるために犠牲となっていった無数の命や、自分と同じように他の命を奪って生き永らえている人間たちをも慰めようとしているのであり、そういうことをこそ、本当の意味で「命をかける」と言うのかも知れない。
ここには魚や花を育む川の流れがあり、その恵みをいただくだけでなく、歌をよむ人間が描かれている。その意味で、6月29日に自分自身の星座であるかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりの仕方でいのちの円環に参入していくことがテーマになっていくのだと言える。
身を観ずれば水の泡
これは一遍上人が残した86句からなる和讃(漢語のお経を日本語に翻訳した仏教歌謡)の第1句であり、第4句までは以下のように続いていく。
消えぬる後は人もなし
命おもへば月の影
出で入る息にぞとゞまらぬ
仏教詩人の坂村真民氏の解釈に従って書き下せば、「この身をよく見てごらん、それは水の泡のようなものだ。泡はすぐ消える、人も同じだ。この命を思うてごらん、それは月の光のようなものだ。出る息入る息のほんのわずかな間も、じっととどまっていることはないのだ」となる。
一遍にとってこの身を以って生きるとは、すなわち一呼吸ごとに命をかけることであり、その意味で念仏とは入る(吸う)息でみ仏とつながり、出る(吐く)息でこの身を仏にしていくための手段であったに違いない。
同様に、今週のかに座のもまたわが身の無常さではなく、その奥にある目に見えないつながりの方へとチャンネルを合わせていくことになるだろう。
かに座の今週のキーワード
一呼吸ごとに命をかける