かに座
この惑星で春を待つ
忘れ忘れてそれでも生きる
今週のかに座は、「九十の端を忘れ春を待つ」(阿部みどり女)という句のごとし。あるいは、弱るところは弱り、助けを求めるべきところは求め。そんな自分を受け入れていくような星回り。
作者が90歳を迎えるときに詠まれた句。「九十の端(はした)を忘れ」とは、実際に自分の歳を忘れてしまったというより、作者なりの感慨を踏まえての物言いでしょう。
よくぞここまで、まがりなりに元気にやってこれたものだ、という静かな充足感をかみしめつつ、この先はもう余生のようなものであり、もはや数えるものでもないという心境にいたったのかも知れません。
そして、そうであるにも関わらず、この先も誰かに迷惑をかけながら生き続けなければならないし、それを自分の目で見届けていかねばならないという覚悟のようなものが感じられます。
この句を詠んでしばらくして出版された自註句集『阿部みどり女集』のあとがきの、「親しい方々がほとんど亡くなられたことを思うと、野原に一人立っているような淋しさである」という記述を読むと、やはり「春を待つ」と詠んだ作者の心には、残された時間をそれでも懸命に前向きに生きようとする女の強さが秘められていたように思うのです。
2月3日23時59分に立春を迎えていく(太陽が水瓶座15度へ移行)今週のかに座もまた、みずからが引き受けるべき運命の輪郭がはっきりと像を結び始めていくことでしょう。
未熟の惑星
映画化もされたミラン・クンデラの代表作『存在の耐えられない軽さ』には、当初『未熟な惑星』というタイトルを付けようとしていたのだとか。
「惑星」はもちろん地球のことですが、なぜ「未熟」なのか。彼はこう言っています。人間が人間として在る条件の一つに未熟ということがあり、私たちは若さの何かを知らずに少年期を去り、結婚を知らずに結婚し、自分がどこへ向かっているのかをよく知らずに老境へ入っていく。ゆえに、「老人は自分の老齢に無知な子どもであり、この意味で人間の世界は未熟の惑星なのである」と。
惑星は「惑う星」と書くように、恒星などと違って宇宙をたえず彷徨っている星であり、確かに私たち人間もまた、いくつになっても現在の自分を知らないという意味で、徹頭徹尾「未熟」である。
とはいえ、作者は必ずしも「未熟」という言葉をネガティブな意味で用いている訳ではなく、ただ放っておくとすぐに「半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる」現代という時代の特性について言及しているだけという気もします。そして今週のあなたもまた、掲句の作者のように、改めて自分はそんな未熟の惑星の住人なのだということを思い出していくことでしょう。
今週のキーワード
未熟であることの豊かさ