かに座
共にいられる居場所の感覚
まず豊かであるということ
今週のかに座は、「麦藁(むぎわら)の家してやらん雨蛙」(河合智月)という句のごとし。あるいは、いのちに向かっていきいきと相対していくような星回り。
作者は江戸時代初期の女流俳人であり、大津の荷問屋主人の妻でした。いかにも商売人らしい、弾むようなしゃべり言葉が掲句にも自然に用いられています。
通りすがりにたまたま雨蛙を見かけて、その可愛らしさに思わず「家してやらん(家をつくってあげようね)」と呼びかけます。この「家して」というのは、「ごはんする(ご飯を作ってあげる)」と同じで、もとの言葉を省略した片言的表現であり、まったくもってかしこまったところがありません。
しかも、作者はごくごく自然に「雨蛙」を人間と同等かそれに近しい存在として扱っており、それがなんとも面白く、かつ豊かな世界観を醸しだしています。
ただやたらと気を遣ったり、世間が“やさしい”と認めるような言動に徹していたら、こうした句は決してできなかったでしょう。詠んだ句が豊かであるためには、小手先のきれいさではなく、いきいきとした臨場感がそこに立ち現れる“自然体”こそが求められるのです。
少なくとも掲句では、雨という大きな自然の循環のなかで、作者と雨蛙とがほとんど同等に並び立って「いのち」に包まれています。
5月11日にかに座から数えて「他者との関わり」を意味する7番目のやぎ座で、土星の逆行(常識の反転)が起きていく今週のあなたにおいてもまた、自分が世話をするようで逆に世話をされたり、逆に助けられているようで助けていたりといった逆説が働いてきやすいはず。できるだけ肩肘張らずに関わりを楽しんでいきたいところです。
配役と自問
「人生はそのまま大河演劇であり、私たち自身はセリフを言い、演技論(という名の幸福論)を身につけ、そのとめどない劇の流れの中で、じぶんの配役が何であるかを知るために、“自分はどこから来たのか?そしてどこへ行こうとしているのか。”と自問しつづけている。」(寺山修司、『地下想像力―評論集』)
そう、先の雨蛙への片言的な問いかけというのも、自分は、または”自分たち”はどこへ行こうとしているのか?という自問自答の繰り返しに他ならないのではないでしょうか。
作者が「麦藁の家」を作る前に、雨蛙はどこかへ行ってしまったかも知れません。けれど、表層的なレベルの「家」ではなく、いのちの根底で安いでいくような「家」には、作者も雨蛙も一緒に入っていたのではないかと思うのです。
あなたにとって、それはどこか。誰と共に、どんな風にいられる場所なのか。そんなことを今週はそっとまなざしていけるタイミングがやって来ますように。
今週のキーワード
いのちは個人よりもずっと大きい