かに座
仕事と人生
受け継がれていくものとして
今週のかに座は、「生きかはり死にかはりして打つ田かな」という村上鬼城の句のごとし。あるいは、「好きを仕事に」というコピーの“ごまかし”を突いていくような星回り。
春の田打ちは田植えの準備。思えば、祖先が海を渡ってこの列島に棲みついて以来、永遠とも思える遥かな時のほとんどの期間を、日本人は夏には田を植え、秋には稲刈りをして暮らしてきました。
そうした祖先をもつ者として、仕事とはまず食べるために行われるものであり、かつそれを分配することで、少しでも豊かさを実感できるものであってほしいという感覚は、ごくごく自然なものと言えるのではないでしょうか。
そしてまた、個人というものが連綿とつながれてきた命の鎖の結び目のひとつにすぎないように、仕事というものも一代で完成するのではなく、何代にもわたって受け継がれていく中でようやく完成に近づいていくものという風に考えてみることもできるのではないかなと。
これはもちろん、親や祖父母とまったく同じことをやり続けよということではありません。扱っているものの形や仕事の仕方は変わっても、連綿とした繋がりの中で個人は、どこかで祖先と同じものを耕しているという見方もできるのではないかということです。
今週は改めて、自分の親や祖父母や遡れる祖先があるのなら、彼らがどんな仕事をし、自分は何を受け継いでいけるのか、考えてみるといいかもしれません。
連続する波の一つとして
トルストイは『人生論』という著書の中で、死後の生ということを一生懸命考えているのですが、そこには次のような一文が出てきます。
「人間は、自分の生が一つの波ではなく、永久運動であることを、永久運動が一つの波の高まりとしてこの生となって発現したに過ぎぬことを、理解したときはじめて、自分の不死を信じるのである。」
普通、死後に残るのはその人の思い出だけですが、トルストイはそうではないと言っているのです。
ひとつひとつの「波」はあくまで大きな海の一部であり、海流としての自分(世代を超えた働きかけ)という視点で生きることができた場合、その人が死んで肉体は滅びたとしても、世界に対して作られた関係によって、より一層その働きが力強くなることもあるのだと言うのです。
こうした視点もまた、ある種の仕事観に通じていくものと言っていいでしょう。
今週のキーワード
連続性のなかで捉える