おひつじ座
渇望と充足
「幻想の異国」を覗く
今週のおひつじ座は、「悪人なおもて地獄に堕つ、いわんや善人をや」という言葉のごとし。あるいは、「内なる異国」を覗いていこうとするような星回り。
歴史学者の加賀屋誠は、親鸞の『歎異抄』にある「悪人なおもて往生す、いわんや善人をや」を言い換えて、冒頭のように言ってみせました(『地獄めぐり』)。
これは自分の心の内に人には言えないような欲動が在ることを自覚し抜いている悪人であれば、迷うことなく地獄(試練)の門を開いてそこを旅して巡ることができる一方で、どこかで自分は善人だと思っている人は、心の内にある欲動(本能)を自身で強く抑圧していることに気が付いていないのだと言えます。それでももし善を為したいという気持ちがあるのなら、なおのこと抑圧している欲動に目を向けるべきでしょう。
死後の世界としての地獄とはある種の「幻想の異国」であり、生の世界としての現実の実相を映し出す鏡のようなもの。そして、それはそうした欲動を禁止するためのものであると同時に、安穏とした日々を送るために、普段は我慢し排除している欲動が宿っている心の奥の「内なる異国」を充足させるためのものでもあったのではないでしょうか。
21日におひつじ座から数えて「深い自己充足」を意味する2番目のおうし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、欲動を禁止するのではなく、むしろ充足させることに目を向けてみるといいかも知れません。
寺山修司の地獄絵体験
歌人にして劇作家であった寺山修司は、『誰か故郷を思わざる』の中で幼少時の地獄絵を見たときのことについて、次のように語っています。
「生まれてはじめて地獄絵を見たのは、五歳の彼岸のときだった。(中略)その古ぼけた地獄絵のなかの光景、解身(げしん)や函量所(かんりょうしょ)、咩声(びせい)といったものから、金堀り地獄、母捨て地獄にいたる無数の地獄は、ながい間私の脳裡からはなえっることはなかった。
私は、父が出征の夜、母ともつれあって、蒲団からはみださせた四本の足、赤いじゅばん、20ワットの裸電球のお月さまの下でありありと目撃した性のイメージと、お寺の地獄絵と、空襲の三つが、私の少年時代の三大地獄だったのではないか、と思っている。
だが、なかでももっとも無惨だった空襲が、一番印象がうすいのはなぜなのか今もってよくわらかない。蓮得寺の、赤ちゃけた地獄絵の、解身地獄でばらばらに解剖されている(母そっくりの)中年女の断末魔の悲鳴をあげている図の方が、ほんものの空襲での目前の死以上に私を脅かしつづけてきたのは、一体なぜなのだろうか?」
絵画を見ること、特に幼少期のそれは、のちの人生を左右するかもしれない、何か特別な出来事であった訳ですが、翻ってあなたの体験はどんなものだったでしょうか。
今週のキーワード
幻想の異国は内なる異国