おひつじ座
当然の帰結の外へ
彷徨う魂の一光景
今週のおひつじ座は、“賽の河原”を行き交う魂のごとし。あるいは、収めどころのない想いを収めるべく、そのはずみをつけていこうとするような星回り。
“賽の河原”と言うと、どうしても私たちは幼くして死んだ子供らが河原に積んだ石の塔や、それを押し崩す地獄の鬼といった仏教的な陰鬱なイメージを思い浮かべてしまいますが、その古層にはサイの神(道祖神)に関するフォークロアが幾重にも折り重なっています。
例えば、「賽の河原は山人と村人との会うところで、ここを措いては山のものと里のものとは行き会わぬ。また山と里の境で、お互いその境から先には行かぬことになっている。すなわち、賽の河原は一種の市である」(折口信夫『日本芸能史ノート』)といった一節だったり、さらに賽の河原の場所について「申し合わせた様に、寂しい水浜、山陰にあって、相当の距離ある、ある部落と次の部落との空地―普通村境と言ふべき所にあることが、常である」(折口信夫『民俗史観における他界観念』)といった記述、そして「死んだ子の行く遠い処とのみ思っていた賽の河原も、かえって子を求むる極めて近い、道祖の神の祭場とその根源の一つであると云うこと」(柳田國男『賽の河原の話』)など。
つまり、さびれた村境の“賽の河原”には、もはや村にはいられず、さりとて理想的な他界(外部)に行くこともできずに彷徨っている未熟な魂(子ども)が集まっていて、サイの神(道祖神)とはそんな子どもを祀る神だったということなのかも知れません。
22日におひつじ座から数えて「現実では解消されきれない想いの収めどころ」を意味する11番目のみずがめ座の始まりで木星と土星の大会合が起きていく今のあなたもまた、今後今までの枠を超えたより広い範囲での活動をしていくにあたり、目に見えないところで自分がどれだけ愛されていたのかを再確認するという体験をしていきやすいでしょう。
身の程知らずになれ
白洲正子は『お能』の中で、能の大成者である世阿弥の芸術家としての天才性について十二分に認めた上で、「芸術家として「してはならないこと」を方便として使いこなせた人が世阿弥であります」と述べました。この世阿弥が実行した「してはならないこと」とは、すなわち「色」を使うこと。白洲正子は「もし世阿弥が美しい少年でなかったとしたら、お能はいつまでたっても浮かびあがれなかったかも知れない」とまで書いていました。
つまり、将軍(権力者)への身売り行為ですね。周囲からのさげすみを受けながら、世阿弥が平然とそういうことができたのは、乞食の技とされた能の専門家として、世阿弥が「身のほど」を肝に銘じて知っていた人だったからなのだと、彼女は結論づけています。このあたりは、後の千利休が、茶道家として秀吉に重用されながらも世渡りを恥じて抵抗したために、最後は切腹に追い込まれたことと対照的と言えるかも知れません。
今週のおひつじ座もまた、そんな世阿弥を鑑みた上で、まずは現在の自分との距離感を測ってみるといいでしょう。
今週のキーワード
自己や関係性を書き換え続けていくこと