おひつじ座
味わいとあきらめ
余情に突き動かされて
今週のおひつじ座は、「秋の暮水のやうなる酒二合」(村上鬼城)という句のごとし。あるいは、人生の苦みを含んだ味わいに深いコクを感じていくような星回り。
晩酌の光景を詠んだ句。「二合」というのが絶妙で、「一合」ではどこか物足りないし、「三合」では楽しむにしては多すぎる。では「二合」でちょうどよく満たされるかと言えば、そう単純に割りきれることでもない。
作者は耳が不自由だったが、10人もの子供を抱え、高崎の裁判所で代書人をしながら句作を続けた苦労人であり、おそらく晩酌の時間は唯一の心休まる時間だったのではないか。
「水のやうなる」とあるのは、普段と変わらない酒であるはずなのに、今日は例外的に酒がすすむように感じられることの強調であり、何か職場か家庭の事情かで飲まずにはいられないことでもあったのかも知れない。
そう考えると、やはり「二合」ではとても適量とは言えないはずだが、同時に、そこで解消しきれなかった言外の余情があったからこそ、作者は句作へと突き動かされたのだ。
11月1日におひつじ座から数えて「資産」を意味する2番目のおうし座にある天王星の真向かいへと太陽が配置され、否応なく意識がそこへ向けられていく今週のあなたもまた、そうした一時的な対症療法では解消しきれない思いこそが自身の真の財産なのだということを認識していくことになるだろう。
ロールモデルとしての釈迦
精神科医の加藤清は『癒しの森』における平井孝男との「宗教体験と心理療法」と題した討論の中で、人間存在そのものが背負わされている宿命としての「無名性」と、そこから派生してくる「無明感情」とを分けた上で、総じて統合失調症患者は無明感情が強くて無名そのものを認識できないのに対して、健康人は無明感情が薄く、その反面、「無明に対する積極的態度を取りうる健康性はある」と分析しています。
そして、加藤はこの両方、すなわち深い無明感情と無名性の積極的認識の両方を徹底していったのが釈迦であるとし、「無明そのものを直視し、それを突き抜けて明の世界に突き抜けていった人もいます」と端的に紹介しています。
さて、ここで改めて、無明とは一体何なのでしょうか?ひとつの道筋としては、「諦める」の語源が「明らむ(あきらむ)」つまり「つまびらかにする」から来ており、それを踏まえ「無“明”」を言い換えるならば、何も諦めることができない状態を指しているという風に考えられます。
その意味で、掲句の作者にとって句作とはまさに何かを諦めるための祈りの行為だったのではないでしょうか。今週のおひつじ座にとっても、そのあたりがヒントになっていくはず。
今週のキーワード
自分の無明性を直視する