みずがめ座
骨身を削る
自分自身を研ぎ澄ませていく
今週のみずがめ座は、「貧乏は幕末以来雪が降る」(京極杞陽)という句のごとし。あるいは、付け焼き刃をそぎ落とし、自分自身という抜き身の刀身を研いでいくような星回り。
掲句が詠まれたのは昭和20年代後半。日本が戦争に負け、社会にどんどん欧米流の民主主義やアメリカ文化が怒涛のように押し寄せている時代です。「ギブ・ミー・チョコレート」と素直に順応できる子供の姿がある一方で、身の振り方について真剣に悩む人たちも多かったはずです。
ある意味で、そうした状況はいまのみずがめ座にも重ねることができるかもしれません。そこで掲句に目を向けると、否が応でも「幕末」という言葉の浮き具合が気になります。
ほとんどの人がアメリカになびいている状況下で、「幕末」を持ち出してくる作者の意図はどこにあるのでしょうか。
何も考えずに手を伸ばせば手に入るわずかな豊かさを取る代わりに、きっと自分の誇りをかけて報いるべき一矢を取ったのでしょう。そう思うと、「貧乏なんて幕末以来慣れているから平気平気」という啖呵のような掲句の味わいも、単なるやせ我慢とは違った深みが出てきますね。
同様に、欲するべきは豊かさか誇りか。何を心から望み、何に対しては我慢できるのか。そこのところを、今週はあなたもまた問われてくるでしょう。
研ぎ石としての苦難
ルーマニアの宗教学者エリアーデはある日の日記にこう書いています。
「またもやあの奇妙な夢。荒涼とした悲しみの感情しか思い出せない。悲しみは全面的で透明だったから、眠りの深みのうちにあっても私の全存在が涙のうちに汲み尽くされるように思えた」
いったいどんな人生を歩んだら、こんな美しい一節が当初誰にも見せるつもりのなかに登場してくるのか。しかし彼の人生をよく知るようになってからは、それもそのはずという気がしてきます。
彼の魂の叫びがもっとも顕著にあらわれている箇所のひとつとして、以下の一節を引用しておきます。
「私は繰り返される失敗、苦難、憂鬱、絶望が、ことばの具体的で直接的な意味での<地獄下り>を表していることを明晰な意志の努力によって理解し、それらを乗り越えうる者でありたい、と念じている」
彼の人生を見ていると、使命とか天職というものは、暗い穴に降りていくような仕方でこそ実感できるものなのかもしれないと思えてきてなりません。
今週のキーワード
M・エリアーデ『エリアーデ日記 旅と思索と人』