みずがめ座
誰かの手のひらの上で踊る
変と常
今週のみずがめ座は、さながらお釈迦様の手のひらの上を飛んでいく悟空のよう。あるいは、日常のなかで人知を超えた存在からのコミュニケーションに開かれてあること。
つまり物事が一見停滞しているように見えても、その根元には生けとし生けるものを伸び栄えんとさせる力の働きが潜んでおり、停滞時にこそ繁茂の相をよく見据え、逆にいずれ迎える繁茂の時には、静けさに立ち返る空や虚に意識を集めることで、人知を超えた働きからその意図を汲んでいくのだと。
それはただ目の前の状況がただ良いとか悪いとか、二元論的に決めつけたがる状態から精神を引き上げ、あらゆる物事に神性を見るような穏やかで瞑想的な状態へと移行させることにも通じていきます。忙しく飛び回る悟空と、つねにその傍らにあって包んでいるお釈迦様の手と。どちらが図となり、どちらが地となるか。
うまくいけば騙し絵のように視点をスライドしていくきっかけをつかむことができるでしょう。
今週は「変」から「常」へと戻りつつ、そこに「変」を残すことがテーマとなっていきそうです。
手玉に取られる安心感
老子の第十章にはこうあります。
「迷える魂を落ち着かせ、統一を保って、そこから離れないようにできるか。
息をこらし、心を開いて嬰児のようにできるか。
神秘めいた幻想をぬぐい去って、一点のくもりもないようにできるか。」
いたずらに我を主張せず、かといってもたれかからず。
このような平静さは、事態の克服と豊かさを保証してくれますが、どこか子宮の中にいた頃に感じていた胎児の安心感を思い出さんとする、今週の水瓶座にはもってこいという気がします。
考えてみれば、悟空が五行山の下敷きされ、お釈迦様に強制的に気を鎮められたのも、そうした嬰児退行の比喩的表現として読むこともできるかも知れませんね。人を手玉にとるより、手玉に取られることが吉と出る。そんな時とも言える時です。
今週のキーワード
嬰児のようにできるか