みずがめ座
豊かな沈黙の味わい
感動と情趣の微妙な関係
今週のみずがめ座は、『妻がゐて夜長を言へりさう思ふ』(森澄雄)という句のごとし。あるいは、慎ましく温かなリアルを邪魔しない関わり方を模索していくような星回り。
「夜長」は秋になって夜が非常に長く感じられるようになること。寝室に入ってから完全に寝入ってしまうまでの、名前のついてないほんのひと時に、妻の口からぽつりと口をついて出た一言なのでしょうか。
なんの他意もない一言であり、普通なら「夜長を言へり」で完結する内容ではありますが、続く「さふ思ふ」でなんとなく意表をつかれた思いにさせられてしまうのは、なぜなのか。
「夜長を言へり」までであれば、作者のいわゆる定番愛妻句であり、妄想に近いような主観の漏れだしに過ぎないものが、下五でとたんにリアルに変貌していく。そこには言葉や気持ちの発し手がいて、そのかたわらにそれを包み込むような受け取り手がいて、確かにひとつの関わりあいが成立しているのです。
実際に交わされた会話そのものは、「静かねえ」「うん……」くらいのものかも知れませんが、掲句にはその行間にたっぷりとふくまれた豊かな沈黙の味わいがあり、心地よい空間の広がりが感じられるはず。それはやはり夜長という従来的な俳句的情趣やそれを用いる意図が、ふたりで過ごしてあることの感動を邪魔しない程度に寄り添う形で、むしろ感動があとに残るように工夫されて表現されているからなのでしょう。
9月11日にみずがめ座から数えて「交わり」を意味する11番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、そんな感動を邪魔しない程度の意図や目的の添わせ方を心がけていきたいところです。
どうしても抜け落ちてしまうものをこそ
世界的な数学者である岡潔と、日本を代表する批評家である小林秀雄のあいだで交わされた対談集『人間の建設』の「人間と人生への無知」という章のなかに、次のようなやり取りがあります。
岡「(…)時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。」
小林「アウグスチヌスが「コンフェッション(懺悔録)」のなかで、時というものを説明しろといったらおれは知らないと言う、説明しなくてもいいというなら、おれは知っていると言うと書いていますね。」
岡「そうですか。かなり深く自分というものを掘り下げておりますね。時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。」
注目すべきは「説明」と「知らない」いう言葉の使い方であり、おいそれと他人に分かるよう説明することなんかできないという境地をきちんと大事にしているかどうかを、岡が「かなり深く自分というものを掘り下げて」いるという風に捉えている点です。
その意味で今週のみずがめ座もまた、人であれ物事であれ、本当に分かりにくいことにあえて首を突っ込み、掘り下げていくだけの気概を持ち合わせていきたいところです。
みずがめ座の今週のキーワード
説明しろといったらおれは知らないが、説明しなくてもいいというならおれは知っている