みずがめ座
卵からうまれた子どもへ
遠く遥かなる感覚
今週のみずがめ座は、「幼な心」としてのA感覚のごとし。あるいは、大人同士のよくあるありふれた結びつき方から脱していこうとするような星回り。
昨今「ホモソーシャル」という言葉が、かつてなかったほどにネガティブな文脈で語られるようになりましたが、男性たちの胸の内にはいつまでも疼いている少年期をめぐる淡い追憶と、胸ときめく危険への憧れとがこだましており、それは少女のそれとは決定的に異なる質感をもっているように思います。その本質について、例えば作家の稲垣足穂は『少年愛の美学』において、こう記しています。
女性は時間とともに円熟する。しかし少年の命はただの夏の一日である。それは「花前半日」であって、次回すでに葉桜である。(…)少女と相語ることには、あるいは生涯的伴侶が内包されているが、少年と語らうのは、常に「此処に究まる」境地であり、「今日を限り」のものである。それは、麦の青、夕暮時の永遠的薄明、明方の薔薇紅で、当人が幼年期を脱し、しかもP意識の捕虜にならないという、きわどい一時期におかれている。
いかにも既存の男女をめぐるエロティシズムを脱構築するような筆致ですが、ここで稲垣は大人への成長のはざまにある「少年」を「P意識の捕虜」以前、つまり性愛以前の存在であると定義しており、大人同士のありふれた性愛にはない、何か特別なものをそこに見出していることが分かります。
「女心」がV感覚に出て、「男心」がP感覚に出て、「大人心」がVP混淆によるものならば、「幼な心」とはA感覚に出ているものでなければならぬ。
ここでいう「A感覚」とは、単に肉体的な意味でのA(肛門)の機能や用途うんぬんの話ではなく、「根源的遼遠におかれているとともに、遠い未来からの牽引」であり、「根源に向かって問いかけながら、それ自ら感覚的超越として諸可能性の中に飛躍していくところの、遠く遥かなる感覚」なのです。
3月25日にみずがめ座から数えて「超越」を意味する9番目のてんびん座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、いわゆる「ホモソーシャル」でも、男女の性愛でもない、どこかA感覚に通じていくような他者との関わりがテーマになっていきそうです。
引き延ばされたフラジリティとしての「ネオテニー」
人間は他の霊長類や動物と比べても、自分では何もできない未熟な幼児期が異様に長い生き物です。それは単に絶対的に長いだけでなく、寿命の長さに対する割合から見ても、他のどんな生物よりも長いのです。
こうした発育過程が遅滞ないし遅延することで胎児や幼児の特徴が保持される生物学的な現象は「ネオテニー(幼形成熟)」と呼ばれますが、アメリカの人類学者アシュレイ・モンターギュは人間は生物の中でもっとも劇的にネオテニー戦略を活用した生物であり、それは「子どもに留まることが人間に文化の可能性をもたらす」のだとも述べています(『ネオテニー―新しい人間進化論―』)。
例えば、他のほ乳類のように母親の体毛にしがみついていることのできない人間の赤ん坊はその代わりに大声で泣いて注意を喚起します。それはほとんど生理的な働きなのですが、こうした「涙を流して泣く」という行為は人間の大人にも遅滞されて保持されており、こらえつつも「涙ぐむ」ことで深い共感を促す訳です。
つまり、「涙もろさ」というのは子どもを延長させたネオテニーの特徴であり、それこそが人間が人間であろうとするための分母的な時空なのだということ。
その意味で、今週のみずがめ座もまた、つねに新しい存在としての子ども性をみずからの中に積極的に見出していくことができるかも知れません。
みずがめ座の今週のキーワード
つねに「ここに究まる」境地