みずがめ座
語りに癒されると歌になる
私はそれが好きだ
今週のみずがめ座は、『いたみても世界の外に佇(た)つわれと紅き逆睫毛(さかさまつげ)の曼殊沙華』(塚本邦雄)という歌のごとし。あるいは、素直になるための遠回りをあえてしていくような星回り。
秋彼岸も近くなると、日本中のいたるところで「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)」の花が突然すっくと立ちあがって顔を覗かせるようになり、ただそれも10月の半ばころには皆殺しの後さながらの真っ赤な血の海もすべて掃き消されていきます。
もともと「曼殊沙華」とは「天上に咲く花」を意味する仏教語であり、想像上の動植物が世俗に生きた実例の一つなのですが、この花には東洋独特の日本在来種でありながら、古歌に詠まれた形跡はほとんどなく、近代に入ってようやく詠まれた始めたという意外な歴史があるのだそう。たとえば前衛短歌を代表する歌人・塚本邦雄は『百花遊歴』の中で、この花について次のような印象的な一文を遺しています。
不意打ちめいた真紅の痙攣、葉の欠如、しかも全く香りを持たぬこと、更に有毒であること等、この植物はもともと日本人に忌み嫌はれるやうにできてゐる。あの躊躇も含蓄もかなぐり捨てて居直つた美しさも亦反感を呼ぼう。私はそれが好きだ。同科のアマリリスの中途半端な濃艶さより、どれほど潔いことか。
しかり。目に映ったものを綺麗だと素朴に口にできることも時に瞠目(どうもく)に値するものですが、しかしその植生や歴史、詠まれた歌の数々を知り尽くした上でなお、「私はそれが好きだ」と書くことのできた塚本の潔さもまた、曼殊沙華に負けず劣らずと言ったところなのではないでしょうか。
9月23日にみずがめ座から数えて「世界のエッジ」を意味する9番目のてんびん座への太陽入り(秋分)を迎えていく今週のあなたもまた、それくらいの率直さをもって、みずからの“感じたこと”を周囲に示していくべし。
自分なりに節を付けていく
例えば、ただそこにある事実や目の前の出来事をそのまま説明するだけの「話」とは区別された、独特の呼吸のある「語り」などは、それが生き生きとしたものであれば大抵は、本人の名前をつけて「おっ、〇〇節が出たね」というような言い方をされたものでした。
つまり、「語り」がこなれて様になってくると、そこに自然とメロディーのようなものが生まれ、ある種の「うた」に近づいていった。そうして「話」から「語り」、そして「うた」へ向かっていくにつれ、普通の人間関係での会話から離れ、芸となっていく。
それを哲学者の坂部恵という人は「緊張が緩和される方向」という風に言っていましたが、もっと端的に言えば、「話」が「語り」や「うた」へ昇華されるにつれ、人はそこで癒されるのです。
おそらく、「生きた声」というのはそこに私の心が入っているということで、それは意識の表面での動きというよりも、もっと深いところでいろいろ動いているものなのでしょう。
今週のみずがめ座は、何かを語っていくなかで、自然と癒されるところまで、自分を動かしていきたいところです。
みずがめ座の今週のキーワード
「素直王」と書いてムーミンと読む