みずがめ座
Don’t think. FEEL!
理解不可能ながらそこにあるもの
今週のみずがめ座は、『流燈や一つにはかにさかのぼる』(飯田蛇笏)という句のごとし。あるいは、何だか分からないような、“向こう”からやって来たものにこそ寄り添っていこうとするような星回り。
流し灯籠は「送り火」という死者を弔う風習の一種で、こうして火を用いての弔い自体は古代日本から行われてきました。
しかし、動力もなしに川に流した灯籠が「一つ」だけ流れに逆らって進んでいくなどという光景は本来ありえないこと。普通ならば作者の個人的な夢や幻想と見なすところですが、作者の迫真の筆致からうかがっても、ちょっとした風のいたらずらや、見間違いのせいでもなければ、単にロマンチックな願いを投影したものなどでもないのでしょう。
意志を得てグングンとさかのぼっていくその動きは、まるで故人の思いが乗り移ったかのようであり、主観と客観のあいだに立ちはだかる壁をそこだけ取り払ってしまったかのようにも感じられます。
思えば、近代化の一途をたどっていった明治社会にあって、当初は山中に住むとされる人型の妖怪である「山人」の実在を前提に情報を収集していた日本民俗学の父・柳田國男も、次第に「山人」の実在/非実在から離れて、そうした「山人」を民俗として伝承している人びとの心の在りようへと関心の焦点を移していきましたが、やはり主観と客観のような二項対立的な構図のなかに打ち震えるような真実は横たわってはいないのだということをどこかで痛感したのかも知れません。
8日にみずがめ座から数えて「心的基盤」を意味する4番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「何が事実か」よりも「どんな真実に心を開きたいのか」をこそ大切にしていくべし。
会田誠の「セカンド・フロアリズム宣言」
2018年2月に青山で開催された「GROUND NO PLAN」展の展示場には、コンクリートの瓦礫が散乱しており、その瓦礫のあいだには何冊もの六法全書が打ち捨てられていました。会田は、その「宣言」のなかで、「われわれには二階建てよりも高い建物がもはや必要ではないし、そうした建物の破壊は法そのものの廃棄に通じるのだ」と訴えたのです。
大手ゼネコンの大林財団が始めた助成事業「都市のヴィジョン」に選出されたこの展示の目的は、「従来の都市計画とは異なる視点から都市におけるさまざまな問題を研究・考察し、住んでみたい都市、新しい、あるいは、理想の都市のあり方を提案・提言」することにあるそうですが、3.11およびフクシマでの原発事故以後の時代状況を会田は、明らかにこれからの都市の在り方をめぐるビジョンを「文明そのものの終焉」から見据え直そうとしていたのでしょう。
文明以前、私たちにとって生きることとは兆候を読みとることと等しく、そこでは日々、空をあおぎ、草木の揺れや風のながれ、その匂いや湿り気、遠くの音や近くの音の変化を聴き取ることで、知覚と想像を結びつける工夫を凝らしてきたはず。しかし、現代社会ではそうした営為をあまりたくましくしてしまうと、おのずと世間や周囲から狂人の烙印を押されるようになってしまいました。
その意味で、今週のみずがめ座もまた、いったん自身の物事の見方を文明以前に戻すべくリセットを試みてみるといいかも知れません。
みずがめ座の今週のキーワード
生きることがそのまま兆候を読みとることであった地点へ