みずがめ座
自由の眩暈
春愁のゆくえ
今週のみずがめ座は、『どことなく傷みはじめし春の家』(桂信子)という句のごとし。あるいは、少し不穏なくらいでちょうどいいのだと思い直していくような星回り。
「どことなく」と言うのですから、具体的に家のどこかが損壊したとかボロボロになってしまったという話ではないのでしょう。あくまで「どことなく」、どこかは分からないが、なんとなく傷んできた気配や匂いがするのだ。
それはいわゆる春愁というやつも大いに関係していて、本来ならする必要のない心配が日常のなかに入り込んできて、それが一見すると平和で穏やかな「春の家」に向けられたのかも知れません。
要するに、平和で穏やかなだけの家など、作者はおもしろくないのだ。ここでは春愁は甘い響きで感傷へ誘うのではなく、不機嫌な倦怠や退屈を伴って鋭く現状批判に向かっているのではないでしょうか。それでいて、句全体の雰囲気がどこかユーモラスで気品があるのは、そのたゆまぬ自己客観視のなせる業でしょう。総じて、この作者には一筋縄ではいかないしたたかさと感傷に溺れない強さがあり、それがこれだけ平易な言葉を通して伝わってくるところだけでも、彼女が凡百の俳人ではないことが感じとれるはず。
4月6日にみずがめ座から数えて「行き着く果て」を意味する9番目のてんびん座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、漠然たる不安をきちんと引き受けて昇華していくべし。
「自由の眩暈」としての不安
春は新たな出会いの季節であり、新たな可能性が花咲く時。しかし、しばしば「可能性」という言葉は良い意味でばかり用いられ、まるで「希望」と同義語のように思われていますが、哲学者のキルケゴールは『不安の概念』という著作において本当の意味での「可能性」とは「一切のものが等しく可能的である」という事態において感じられる“困難さ”なのだと考えました。
つまり、何にもすがることなく、誰にも助けを求めることもできず、私が、私だけが何かを今ここでなす、その瞬間に立ち合っている(または、立ちすくんでいる)という事態であり、キルケゴールが「不安は自由の眩暈である」と述べるとき、そこには、何にもないところから何かをなすという自由がまるでパックリと口を開けた深淵のように姿を現し、それを凝視せざるを得ない人間の茫然とした姿を思い描いていた訳です。
こうしたキルケゴールの洞察は、逆に言えば訳もなく不安になってくる時というのは、停滞している状況に飽きてきて新たな可能性を追求したくなっている証しであるという解釈にも結びついていくはず。今週のみずがめ座もまた、そうした不安への自覚をみずからに促していきたいところです。
みずがめ座の今週のキーワード
「それでも、否が応でも行為し、生きざるを得ない」自分との不協和への認識